鳥取市: 吉川経家公墓所

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概要・歴史・観光・見所
吉川経家公墓所(鳥取市)概要: 吉川経家は吉川経安の嫡男で、天正9年(1581)吉川経家公墓所に行われた羽柴秀吉による因幡侵攻を食い止めるべく鳥取城の城将として赴任しました。当時の鳥取城の城主は山名豊国でしたが、織田信長に転じた為、それまで豊国に従っていた国人領主の多くが毛利家とも縁を結んでいた事もあり、豊国を鳥取城から追い出し、改めて毛利家一族である吉川経家を城主として迎え入れました。それを聞いた織田信長は激怒し鳥取城奪還の為に家臣である羽柴秀吉を派兵しました。秀吉勢2万に対して鳥取城方は1千4百と、数の上では圧倒的に秀吉側が有利でしたが、あえて力攻めは行わず12キロにも及ぶ包囲網を築き、城内への兵糧の侵入を徹底的に抑える兵糧攻めを敢行しました。秀吉は鳥取城の背後にある太閤ヶ平に本陣を構えると無理な攻撃を行わず、城兵も守備に徹した為、吉川経家公墓所篭城は約3ヶ月続き、鳥取城に兵糧が尽きると馬は元より、戦死した人間の肉まで食し飢えを凌いだとされ、後に「鳥取城の渇え殺し」と云われる凄惨な戦いとなりました。結果的に吉川経安は自らの自刃を条件に城兵の助命を嘆願し、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」との遺言状を本家である吉川広家に送り誓書を確認したうえで自刃しました。この五輪塔は吉川経家とそれに従った従者の墓と伝えられ高さ1m程の基壇に7.8m四方の柵で囲われています。

吉川経家公墓所:写真

吉川経家公墓所
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