倉吉市(歴史)概要: 倉吉市は古代伯耆国(7世紀に立国)の中心だった地域で伯耆国庁や国分寺、国分尼寺が設けられ、後に伯耆国二ノ宮を称する波波伎神社などが建立されました。鎌倉時代に入ると在庁官人出身の国人領主小鴨氏が伯耆国守護代の任を得てこの地を支配し代々の居城である岩倉城を築いています。室町時代に入ると伯耆国守護職である山名氏が直接支配し興国年間(1340〜45)には田内城を築き守護所を設け、特に山名時氏は室町幕府の有力大名として勢力を広げ全国66か国のうち11ヶ国を領し「六分一殿」と称せられました。
延文年間(1356〜61)、跡を継いだ山名師義は打吹城を築いて守護所を移転させ以後、長きにわたり打吹城が伯耆国の中心として機能します。戦国時代に入り山名氏が衰退すると出雲の尼子氏の侵攻を許し大永4年(1524)には所謂「大永の五月崩れ(諸説有り)」によって打吹城をはじめ多くの支城が落城し一時尼子領となります。尼子氏が衰退すると毛利氏の後ろ盾を得てた南条氏が勢力を拡大し打吹城を摂取、小鴨氏も復権しますが天正7年(1579)に羽柴秀吉が因幡に侵攻すると秀吉側に寝返り、逆に毛利氏の逆鱗に触れ大軍を送り込まれ打吹城や岩倉城は落城し南条氏、小鴨氏共に領外へと逃れています。
天正12年(1584)に南条氏は羽柴秀吉の力借り毛利氏と和睦し再び打吹城を摂取しますが慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍に付いた為改易となり、代わって米子城の城主となった中村一忠の家臣中村栄忠が城代として打吹城に入ります。慶長14年(1609)に中村氏が改易になると一時天領となり慶長19年(1614)に里見忠義が3万石(実質的には4千石程度と云われています。)で入封、事実上捨扶持扱いで実際打吹城で政務を行う事はなく元和8年(1622)に忠義が死去すると里見家は断絶します。
その後は鳥取藩領になり寛永9年(1632)に池田光政が鳥取藩に移封になると倉吉には次席家老の荒尾氏が配され打吹城の麓に陣屋を構えます。倉吉領は荒尾氏の半独立領である自分手政治を許され明治維新まで荒尾氏が支配します。江戸時代を通じて事実上荒尾氏の城下町として周辺の政治、行政の中心地となり、交通の要衝だったことから多くの商人が集まった事で経済的も発展しました。現在でも当時の町並みが随所に見られ「倉吉市打吹玉川地区」が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
|