鳥取市鹿野町(歴史)概要: 中世の鹿野町は国人領主(山名氏の一族説もあります。)である志加奴氏(鹿野氏)の居城だったとされます。鹿野町は古くから交通の要衝だったことから、軍事的拠点として重要視され戦国時代には山名氏、尼子氏、毛利氏などが鹿野城を巡る攻防戦が幾度となく繰り返され何度も領主が代わっています。羽柴秀吉の鳥取城攻略の際も先駆けて亀井茲矩を鹿野城の城主として送り込んでいます。茲矩は鳥取城が落城した後に正式に鹿野城主1万3千石が与えられ、関が原の戦いで東軍に組したことで3万8千石に加増され鹿野藩を立藩しています。
茲矩は鹿野城の近代化を図ると共に幕府から朱印状を受け取り南蛮貿易を積極的に行い、その利益を延長16キロにも及ぶ「大井手用水路」の建設にあて広大な新田開発を行っています。元和3年(1617)、2代亀井政矩は津和野藩(島根県津和野町)に移封になると新たに鳥取藩主となった池田氏の家老日置豊前が城主となります。寛永9年(1632)、新たに鳥取藩の藩主となった池田光仲の2男池田仲澄が鹿野領2万5千石が分知され鳥取東館新田藩を立藩するも藩庁は鳥取城下に置かれ、鹿野に陣屋が置かれたのは明治元年になってからです(翌年には廃藩となり鳥取藩に吸収されました。)。鹿野町は政治、行政的だけでなく物資の集積地、鹿野往来の宿駅として経済的にも発展し周辺の中心地として確立しました。現在でも当時の古い町並みが残っています。
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