若桜町(歴史)概要: 若桜町は奈良東大寺建立の記録や「和名抄(平安時代中期に作られた辞書)」に記されていることから少なくとも奈良時代には成立していたと考えられています。正治2年(1200)には矢部十郎暉種が梶原景時の変で功があり因幡国山田周辺(八東若桜郷20余力村)が与えられ若桜鬼ケ城を築城しています。以来、16代矢部氏が領主として支配しましたが室町時代に入り山名氏が因幡国の守護になるとその支配に組み込まれます。
若桜町は若桜街道(鳥取と姫路を結ぶ街道、播磨道とも呼ばれた。)と伊勢街道(鳥取と伊勢神宮を結ぶ街道、但馬道とも呼ばれた。)が通る交通の要衝だったことから軍事的にも重要視され戦国時代には尼子氏や毛利氏による攻防戦が繰り広げられています。天正6年(1578)、羽柴秀吉の因幡侵攻では逸早く若桜鬼ケ城を攻略、家臣である木下重賢を城主として配し軍事的拠点として重きを成しました。
鳥取城が陥落すると重賢は改めて若桜領2万石の領主となり城下町や領内の整備を行いますが、慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍に組し改易となります。代わって山崎家盛が三田から3万石に加増され初代若桜藩主となり、引き続き若桜鬼ケ城の近代化や城下町の整備を行います。元和3年(1617)2代家治は大坂の陣の功により備中成羽藩3万5千石に加増転封になると鳥取藩領となり若桜藩は廃藩となります。
元禄13年(1700)に当時の藩主池田光仲の5男清定が1万5千石が分知され鳥取西館新田藩を立藩、しかし城は設けられず幕末に陣屋を設けた程度となりました。若桜町は交通の要衝だったことから物資の集積場としても発展し周辺の経済的な中心となり多くの商人が集まり今日に見られる町並みが形成されていきました。特に明治時代の大火以降は土蔵建築が義務付けられた為、現在の蔵通りでは白壁の土蔵が連続して並んでいます。表のカリヤ通りは北陸から東北地方の町屋建築で見られる「雁木」や「こみせ」と呼ばれる私有地に庇を設けてアーケード風にしている「仮屋(カリヤ)」が見られ若桜町特有の町並みが見られます。
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