八頭町(歴史)概要: 八頭町は福本古墳群や久能寺古墳群、山路古墳群、大坪古墳群、郡家古墳群など数多くの古墳が点在している事から古くから生活に適していた土地柄で当時から支配階級が存在していた事が窺えます。白鳳時代から奈良時代には大型寺院が建立され土師百井廃寺跡では法起寺式の大伽藍跡が発見され国指定史跡に指定されています。
鳥取県内でも比較的早くから仏教文化が伝えられ和銅2年(709)には新興寺や清徳寺、和銅3年(710)には青龍寺が次々と開山し、特に新興寺は因幡国衙の役人や後醍醐天皇の祈願所として寺運が隆盛し数多くの支院、末寺を擁する大寺院となりました。中世には小松氏や因幡毛利氏などの国人領主が割拠しますが戦国時代に入ると山名氏、尼子氏、毛利氏などの影響を大きく受け絶えず領主が代わる状況が続きました。
江戸時代に入ると池田光政の家老丹羽兵部が配され船岡丸山城を居城とし、慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると船岡丸山城は廃城となり麓に陣屋を設けています。寛永9年(1632)に池田光仲が鳥取藩主になると家老職であった乾氏が3千5百石でこの地に配されました。乾氏は宇多源氏、佐々木経方の6男である行範の後裔を自称する名族で戦国時代に入ると織田信長の重臣である池田恒興に仕え、武功を重ね家老にまで上り詰めました。鳥取藩でも家老を歴任し3千5百石(後に5千石)が与えられ、鳥取藩から半独立した権限を持った自分手政治が認められました。船岡には陣屋を設け事実上の城下町や領内の整備や西来寺(現在は廃寺となり歴代乾氏の墓碑が残されています。)を菩提寺とするなど明治維新まで15代にわたり支配します。
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