米子市(歴史)概要: 米子市には向山古墳群や宗像古墳群、福市遺跡、青木遺跡など弥生時代から古墳時代の遺跡が数多く点在しています。特に岩屋古墳は全長52mの前方後円墳で人物や動物等の形象埴輪や高度の技術が見られる横穴石室を有する貴重なものとして国指定史跡に指定されています。平安時代後期になると紀氏が伯耆守として赴任し勢力を拡大、国人領主化し長きに渡り大きな影響力を及ぼし度々東伯耆の小鴨氏と抗争を繰り返しています。源平の合戦の折には紀氏は源氏側に付き、平家側に付いた小鴨氏を打ち破った為、西伯耆一帯を支配下に治めることになりました。
室町時代に入ると紀氏の後裔とされる進氏が支配し、一時伯耆国守護代に任ぜられるなど有力な国人領主として確立していたと思われます。一方で伯耆国守護職の山名氏の支配も広がり、山名氏の一族である行松氏が尾高城を中心に勢力を拡大させています。大永4年(1524)、尼子氏が伯耆国に侵攻した事で進氏は尼子氏に従属し、行松氏は領土を追われ、米子市の周辺は尼子方の吉田光倫が配されます。尼子氏が衰退してくると、行松氏は毛利氏の協力を得て永禄5年(1562)に復権しますが、同時に毛利方の杉原盛重も領主として派遣された為、南条氏と共に毛利氏と対立、この頃、因幡に侵攻した羽柴秀吉にも近づいています。天正11年(1583)、当時の領主杉原元盛が弟である景盛に謀殺されたことで毛利氏から大軍を送り込まれ景盛は自刃、以降、吉川広家の影響下に入ります。
慶長5年(1600)、関が原の戦いで行松氏は西軍に付いた為改易となり吉川広家は東軍に内通していたものの本家筋に当たる毛利家が西軍に付いた為、大きく領土を減らしています。代わって中村一忠が17万石で入封し米子藩を立藩、吉川広家から始められた米子城の築城や城下町の整備を引き継ぎ、現在の米子市の基礎とも言える事業を行っています。慶長14年(1609)、一忠は20歳の若さで死去すると改易となり、代わって加藤貞泰が美濃黒野藩から6万石で入封、しかし、元和3年(1617)に伊予大洲藩に移封となり米子藩は廃藩となります。その後、米子市周辺は鳥取藩領となり寛永9年(1632)に新たに藩主となった池田光仲の着座家筆頭荒尾成利が配されます。一国一城令が発令されていたものの米子城は城郭として認められ、さらに荒尾氏による半独立領となる自分手政治が明治維新まで続けられました。
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