若桜鬼ヶ城概要: 若桜鬼ヶ城の築城年は不詳ですが鎌倉時代初期に 梶原景時の変で功があり因幡国山田周辺が与えられた矢部氏が築いたのが始まりとされています。記録的には延徳元年(1489)に「矢部館若狭」と記載されており、少なくともこれ以前から存在していたと思われます。築城以来、歴代矢部氏が城主として支配し16代続きましたが室町時代に入り山名氏が因幡国の守護になるとその支配に組み込まれます。若桜鬼ヶ城は但馬に続く交通の要衝で、軍事的重要拠点だった為、戦国時代に入ると度々若桜鬼ヶ城を巡る攻防戦が繰り広げられました。天正3年(1575)、尼子氏の家臣山中鹿介は尼子氏の再興の為、勝久を擁立し若桜鬼ヶ城を急襲、一時占拠しましたが天正4年(1576)に毛利一族の吉川元春に攻略されてします。
天正6年(1578)、羽柴秀吉の因幡侵攻により再び若桜鬼ヶ城が落城、天正9年(1581)に鳥取城が落城し当地域が秀吉により完全に掌握されると、秀吉配下の木下重賢が城主となり因幡侵攻の中心的な役割を持ちました。
江戸時代に入った慶長6年(1601)、山崎家治が3万石で入封し若桜藩を立藩しますが元和3年(1617)に山崎家治が備中成羽藩に移封、鳥取藩主となった池田光政が接収すると一国一城令もあり、若桜鬼ヶ城は廃城となっています。
その後、鳥取藩に組み込まれますが元禄13年(1700)に当時の藩主池田光仲の5男清定が1万5千石が分知され鳥取西館新田藩を立藩、しかし城は設けられず幕末に陣屋を設けた程度となりました。
若桜鬼ヶ城の構造 若桜鬼ヶ城は標高446mの鶴尾山の山頂付近に築かれた連郭式山城で城郭の規模や郭の配置や石垣などの構造、歴史的重要性などから鳥取城・鹿野城とともに因幡三名城の一つに数えられています。山頂付近には本丸、二ノ丸、三ノ丸、馬場が主要な郭で、尾根沿いには複数の小規模郭が設けられ、本丸には複合式天守閣が聳えていました。
案内板によると「 ・・・(前略)城郭の遺構は大きく2群に分けられる。山頂部から南北に延びる尾根の中腹から先端部にかけては堀切、竪堀が見られ、小規模な曲輪群が構築されている。また山頂付近には、この付近でとれる石材を用いた石垣によって、虎口や天守台等が築かれている。その構造から前者は戦国時代の山城の遺構で、後者は近世初頭になって新たな築城技術で構築されたと考えられている。(後略)」とあります。若桜鬼ヶ城は学術的価値が非常に高い遺構として平成20年(2008)に国指定史跡に指定されています。
若桜鬼ヶ城:上空画像
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