・当地は伯耆国の国境に近い軍事的要衝で、応仁から文明年間には山名宗之が飯山に米子の前身となる砦が設けられています。
一方、山名氏の被官で尾高城の城主である行松氏が中世以来、長く当地を支配していましたが、永正年間頃から伯耆国に侵攻を進めた尼子氏に敗れ、当地から落ち延びています。
永禄5年に行松正盛は毛利家の後ろ盾を得て尾高城の城主に復権したものの、正盛が死去すると尾高城には毛利家の家臣杉原盛重が配され、事実上毛利家の支配下に入っています。
天正19年には毛利家一族の吉川広家が米子城を築城し、毛利家の支配体制を確立しています。
しかし、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで毛利家一族は西軍に与した事で、大きく石高を減らされた為、吉川氏も当地を離れています。
代わって中村一忠が18万石で入封し米子藩を立藩、一忠は米子城と城下町の整備を行っています。
慶長14年に一忠が死去すると御家断絶になり、代わって慶長15年に加藤貞泰が6万石で入封したものの、元和3年に伊予大洲藩に移封になった為、米子藩は廃藩となっています。
その後、鳥取藩領に組み込まれ、寛永9年に池田光仲が藩主になると、池田家の着座家筆頭の荒尾成利が1万5千石で配され、藩とは半独立的な立場が認められる自分勝手が行われています。
米子は山陰道の他、出雲街道と境湊往還が分岐する交通の要衝だった事から多くの人や荷物が行き交い大いに賑わいました。
米子城の麓には武家町、山陰街道と境湊往還沿いには町人町、寺町には9ヵ寺が一直線に寺地を与えられています。
又、米子湊は北前船の寄港地だった事から港に通じる加茂川沿いには土蔵が建ち並んでいました。
特に港に近い灘町や立町、内町には鹿島家や後藤家等の豪商や問屋が軒を連ね「山陰の大坂」と称される程に繁栄したそうです。
山陰街道沿いは商店街の一部になった為、建て替えが進み、古い町屋建築が少ないものの道幅が狭く宿場町らしい町割りが見られます。
山陰街道:宿場町・再生リスト
出雲街道:宿場町・再生リスト
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