米子城(鳥取藩:自分手政治)

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米子城(鳥取藩:自分手政治)概要
米子城(鳥取藩:自分手政治)概要: 慶長5年(1600)、当時の駿府城(静岡県静岡市)の城主中村一氏は関が原の合戦の際、東軍に組したものの、本戦に参戦前に病死。跡を継いだ中村一忠も東軍に付き犬山城(愛知県犬山市)や大垣城(岐阜県大垣市)攻略に従軍した為(実際は一氏の弟、中村一栄が尽力した。)、14万5千石から3万石が加増され17万5千石で米子藩を立藩します。一忠は伯耆国の国持大名となりましたが、立藩当初は11歳と若年だった為、徳川家康から横田村詮が派遣され執政として吉川広家から引き継いだ米子城や城下町を完成させました。村詮の勢力が広大すると中村家の譜代の家臣である安井清一郎、天野宗杷が村詮殺害を画策し慶長8年(1603)、一忠自らが村詮を刺殺しました。これに対し横田家一族や関係者は村詮の屋敷に立て籠もり反旗を上げ抵抗した為、出雲富田藩に援軍を要請しようやく鎮圧しました。一忠は無罪となりましたが安井・天野の両名は切腹、米子藩側の記録では村詮の悪政に耐えかねた藩主一忠と忠臣達が村詮を成敗したとされ、幕府側では一忠の悪政を村詮が諌めたが逆鱗に触れ刺殺されたとあります。一忠は無罪になったものの幕府からの信頼は失墜し慶長14年(1609)、一忠が死去すると3人の子共がありながら跡継ぎと認めらず中村家は断絶となります。代わって加藤貞泰が美濃黒野藩から6万石で入封、しかし、大坂の陣で功を上げ元和3年(1617)に伊予大洲藩に移封となり米子藩は廃藩となります。その後、米子市周辺は鳥取藩領となり寛永9年(1632)に新たに藩主となった池田光仲の着座家筆頭荒尾成利が配されます。一国一城令が発令されていたものの米子城は城郭として認められ、荒尾氏による半独立領となる自分手政治が明治維新まで続けられました。

米子藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代中村一忠1600〜1609年17万5千石 
初代加藤貞泰1610〜1617年6万石 

米子城(鳥取藩:自分手政治)歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代荒尾成利1632〜1652年1万5千石 
2代荒尾成直1652〜1679年1万5千石 
3代荒尾成重1679〜1692年1万5千石 
4代荒尾成倫1692〜1734年1万5千石 
5代荒尾成昭1734〜1747年1万5千石 
6代荒尾成昌1747〜1748年1万5千石 
7代荒尾成煕1747〜1787年1万5千石 
8代荒尾成尚1787〜1818年1万5千石 
9代荒尾成緒1818〜1851年1万5千石 
10代荒尾成裕1851〜1867年1万5千石 
11代荒尾成富1867〜1869年1万5千石 

米子城(鳥取藩:自分手政治)
米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み
米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み 米子城(鳥取藩:自分手政治):町並み
米子城(鳥取藩:自分手政治)城下町:名所・旧跡
米子城
米子城
米子城
小原家
旧小原家長屋門
旧小原家長屋門
感応寺
感応寺
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清洞寺跡
清洞寺跡
清洞寺跡
勝田神社
勝田神社
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