青屋宿

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青屋宿:略データ
・場 所・鳥取県鳥取市青屋
・概 要・青谷町にある青谷上寺遺跡は縄文時代から古墳時代にかけての複合施設で、特に弥生時代後期の100人以上の人骨が見つかり、中でも脳3点、殺傷痕のある人骨、脊椎カリエスの症例が疑われる人骨も発見されています。

さらに青谷町には141基の古墳が確認されており、古くから開けていた地域だった事が窺えます。

青谷町の古代は因幡国気多郡に属し、日置郷と勝部郷に分かれていました。

古代の官道である山陰道が開削されると駅家である「柏尾駅」が青谷町に設置されたと推定されています。

これは、三大実録の天慶元年の条に「正六位上 因幡国相尾神授従五位下」と記されていますが、この「相尾」は「相屋」の誤りで、「相屋」が「青屋→青谷」に転じたと推定され、「相尾」を「柏尾」に誤った可能性が高いと考えられます。

相屋(あいや)の「あい」は「旧河床の低地」の意味で「や」は「谷地(沢:低湿地)」との意味である事から当地が「川の下流の低湿地」だった為、名付けられた可能性があります。

青谷横木遺跡には古代山陰道や条里制の痕跡が見られ。「祓」と呼ばれる祭祀に利用したと思われる人や馬を模った木板や木簡等が発見され、役所のような施設があった事が示唆されています。

中世に入ると鹿野氏が支配したようで、「明徳記」の「志賀野八郎」や「後太平記」の「志加奴七郎」は鹿野氏の一族と目されています。

天文13年に尼子晴久が当地に侵攻し鹿野城は落城、当時の城主である鹿野入道は家臣300人と主に壮絶な討死をしたと伝えられています。

亀井茲矩が領主となり、鹿奴領内整備を行うと青谷の芦崎湊が鹿野城の外湊となりました。

茲矩は特に東南アジアと朱印船貿易に力を入れ、その拠点となった長崎には芦崎湊と結んだ事から重要視されました。

元和3年に2代亀井政矩が津和野藩に移封になると朱印船貿易も行われなくなりました。

その後の芦崎湊は北前船の寄港地として賑わい、特に金屋、関屋、鍵屋、大黒屋、桝屋、浜崎屋、米屋は「八軒屋」と呼ばれる大棚の廻船問屋で当地を代表する豪商として名を馳せ、八軒屋地区に軒を連ねました。

一方、山陰街道が開削されると宿場町である青屋宿が開宿し、鹿野往来との分岐点として交通の要衝でもあった為、街道沿いには商家や旅籠が建ち並び大いに賑わいました。

潮津神社の向かいに屋敷を構えている山名家の前には藩の掟や暮らしの心得等を掲載した制札場が設けられています。

潮津村は上青屋、芦崎村は下青屋、青屋村は向青屋と呼ばれ、この3村が一体化して町場を形成しており、安永2年に編纂された伯路記草稿に「此三ヶ村ヲ一ツ所ニシテ総名ヲ青屋の庄ト申ス」と記しています。

街道筋で宿場の中心は潮津村で多くの商家が並び、芦崎村は芦崎湊があり鳥取藩の青屋御蔵や青屋御茶屋が設けられていました。

江戸時代まで遡る建物は少ないものの明治時代から昭和初期の民家が懐かしい町並みを形成しています。

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