・下市川の河口付近が鎌倉時代末期に討幕運動が露呈し隠岐島に流された御醍醐天皇が島を脱出し、上陸した地とも云われています。
その時の船頭は大病を患い故郷である隠岐島に戻る事なく「故郷が見える高台に埋葬して欲しい」との遺言を残し、村はずれの山に弔われた事から、この山は「お船頭山」と呼ばれるようになったと伝えられています。
当地は汗入郡と八橋郡の郡境に近かった事から軍事的に重要視され下市城(伯耆天守山城)が築かれました。
戦国時代に当地が毛利家一族である吉川領になると、天正元年に吉川元春が下市城に家臣の森脇若狭守を配しています。
跡を継いだ吉川広家の時代にも森脇家が当地を支配していましたが、慶長5年に発生した関ヶ原合戦で毛利家が西軍の総大将として大恩ある豊臣家を支えたものの敗北し、大きく石高を減らされた事から森脇家も当地を離れ、下市城も廃城となっています。
江戸時代に入ると紆余曲折を経て鳥取藩領や社寺領に属し、山陰街道が開削された際、隣接する上市村との間にあった大きな断崖を改修、下市坂の難所も解消された事で、街道沿いには市が立つようになり、地名の由来となっています。
元禄15年に下市宿が経営不振となり、下市村と上市村、岡村の三村の共同経営が命じられています。
明治23年には小泉八雲が松江中学校に赴任する為に松江に向かう途中、上市村の牧野旅館で宿泊し、丁度その晩、妙元寺の境内で開催されていた盆踊りを見学、その時の様子を「知られぬ日本の面影」に記しています。
八雲は下市の盆踊りや風景の素晴らしさ、人情の素朴さに感動し、「何か想像を絶した夢幻的な舞踏」と記し、多くの盆踊りの中でも下市のような精霊を慰める踊りはどこにもなかったと評しています。
下市の妙元寺や旧宿場町を含む中山築の名所、旧跡を巡る周回コース約12.0キロは「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選定されています。
江戸時代まで遡るような古建築は少ないものの、街道沿いには明治時代以降と思われる町屋建築が多く建ち並び懐かしい町並みを見る事が出来ます。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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