・旧泊村は律令制下で、伯耆国河村郡たけの笏賀郷に属していました。
古代の官道である山陰路が開削されると駅家である笏賀駅が設けられ伝馬五疋が常備されています。
笏賀駅の部所については諸説ありますが、古墳時代末期から奈良時代にかけての石脇第3遺跡周辺が大正時代まで「久津賀村」と呼ばれ「久塚」という小字が残っている事から、旧泊村石塚郷に笏賀駅があった可能性があります。
平安時代末期頃、笏賀庄は近衛基通の所領で、基通の孫にあたる摂政近衛兼経が寛元元年に三条院王女である冷泉宮に譲渡し、建武3年には光厳上皇院宣により勘解由小路光業に当地の知行が安堵されています。
当地は伯耆国と因幡国の国境付近に位置する交通の要衝だった事から鎌倉時代末期頃、伯耆国守護職山名家の一族である河口氏により河口城が築城され重きを成しています。
室町時代初期頃に出雲の尼子氏が当地に侵攻すると河口城も尼子勢に落とされ、尼子誠久が城主となっています。
その後、山名久氏が但馬国守護職山名祐豊の支援を受け、河口城を奪還したものの、戦国時代には毛利家の支配下に入り、毛利一族の吉川元春が統治し、河口氏もこれに従っています。
天正9年に行われた羽柴秀吉の因幡攻めでは羽柴勢の一翼を担った松井康之が当地を急襲し、河口城は落城、城下と共に泊湊に停泊していた毛利方の船舶65艘が藻屑に消えています。
当地は秀吉に従った南条氏が支配したものの、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで南条氏は西軍に与した為、改易となりその後は鳥取藩に属しました。
江戸時代に入り山陰街道が開削されると宿場町である泊宿が開宿し、宿場内には藩主の宿泊や休息所として利用された御茶屋や制札場、馬継、舟番所が設けられています。
泊宿は周辺の村落とは異なり、宿屋や小店が認められた事から、商業や漁業が発展し、次第に戸数や人口が増加しています。
泊宿には「さかい屋」、「はしづ屋」、「あかし屋」、「あかさき屋」、「びぜん屋」、「わかさ屋」、「かろ屋」、「長瀬屋」、「宝木屋」、「こう屋」、「よろづ屋」、「す屋」、「なべ屋」、「あらもの屋」、「べに屋」、「かさ屋」、「あめ屋」、「おけ屋」、「米屋」、「新米屋」等の屋号を掲げる家が軒を連ね、当地が様々な地域と関係を持ち、多くの職種の店があった事が窺えます。
現在でも街道沿いには江戸時代まで遡る古建築は少ないものの懐かしい町並みが残されています。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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