・鳥取の地は古代因幡国の政治と経済の中心だった所で、因幡国府が置かれ因幡国一宮である宇部神社が鎮座していました。
地名は古代に氏族で、鳥を取って大王に献上したり飼育した鳥取部がいた事に由来し、古事記によると垂仁天皇の御代に「是に天皇其の御子鳥取部の鳥を定む」と記されています。
平安時代後期に編纂された「倭名抄」には「因幡国邑美郡鳥取郷」と記され、歴史ある地名だった事が判ります。
鎌倉時代には朝廷の権威が失墜した為、当地の政治的な重要性は失われましたが、15世紀中頃に因幡国第5代守護職山名勝豊が布施天神山城を築き因幡国守護所を遷しています。
戦国時代になると因幡山名氏は但馬国守護職の山名氏との対立が激化、さらに家臣である武田高信や中国地方の大大名である毛利氏の台頭で、弱体化が鮮明になりました。
元正元年に武田高信の死去した間隙をついた山名豊国は尼子家遺臣山名鹿之助の助力を得て鳥取城の奪還に成功しています。
天正8年に織田信長の命を受け羽柴秀吉が因幡国に侵攻、因幡勢は鳥取城で籠城戦を展開する中、山名豊国は単身で、秀吉の陣中に赴き降伏しています。
因幡勢はその後も鳥取城を拠点として抵抗を続けましたが、天正9年の苛烈な籠城戦の末、鳥取城は落城しています。
当地は秀吉に従った宮部善祥坊継潤が配されましたが、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで、豊臣家に恩義を感じ西軍に与した為改易、変わって池田長吉が6万石で入封し鳥取藩を立藩しています。
元和元年に池田光政が32万石で入封すると、領内や城下町の整備が行われ、現在に繋がる基盤となっています。
寛永9年に池田家の分家筋である池田光仲が32万5千石が入封、以後、明治維新まで池田家が藩主を歴任しています。
当地は交通の要衝で山陰街道、若桜街道、智頭街道(因幡街道)が分岐していた事から城下町は上記の三街道を取り込むように町割りされました。
三街道はそれぞれ並列に並び、それらに直交するように細かな道が設けられ、本町、肴町、桶屋町、大工町、職人町等が成立し一大消費地として発展しました。
特に智頭街道(因幡街道)は鳥取藩の藩庁が置かれた鳥取城の大手筋にも当たる為、街道沿いには豪商が軒を連ね城下の中で最もと賑わった所となりました。
昭和18年の大地震と昭和27年の大火により伝統的な建物の多くは失われましたが、町割りを継承しています。
山陰街道:宿場町・再生リスト
因幡街道:宿場町・再生リスト
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