母木宿

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母木宿:略データ
・場 所・鳥取県鳥取市気高町宝木
・概 要・母木周辺は鳥取市と旧気高町の境に近く、海側の高台には大崎城の砦と推定される湊山砦が築かれていました。

戦国時代には大崎城は何度も攻防戦が繰り広げられた事から当地もその戦禍にさらされたと思われます。

そのような中、宮吉城が築かれ、大永年間に山名誠道が因幡国守護職に就任した際、誠道に従い山名四天王に数えられた田公(日下部)時高が当城に入っています。

田公氏は因幡国守護代として代々山名家に従い、山名氏が毛利家に下ると同じく毛利家に従いましたが、天正8年の織田信長の命により因幡国に侵攻した羽柴秀吉に山名豊国が降伏しました。

天正9年、当時の宮吉城主田公高家も秀吉に通じた亀井茲矩の懐柔に応じて羽柴方に転じた為、毛利家の家臣である杉原盛重に攻められ、宮吉城は落城、高家一族は茲矩の守る鹿野城に落ち延びています。

江戸時代に入り山陰街道が開削すると宿場町が成立し、宮吉城の城下から当地に住民が移転したと思われます。

宮吉城の城下町時代の栂の大木があった事から栂村と呼ばれていたようですが、栂の漢字を「母」と「木」に分けて「母木」になったと伝えられています。

母木宿の正式な開宿年は不詳ですが、少なくとも寛永14年には既に成立していたとされ、宝永2年には母木宿内に伝馬が25疋常備されていました。

元禄14年に母木村の北部、馬継所を含む街道沿いが分村し新町村となった為、母木新町宿や新町宿と呼ばれるようになりました。

寛永14年駄賃銀宿貸書付(在方御定)によると、宿賃は主人(馬共)12文・下人6文、駄賃は鳥取まで1匁2分と記されています。

又、鳥取藩のお抱え力士で、現存する最古の勧進相撲番付で大関として名を連ねた初代両國梶之助の出身地で、墓碑が建立されています。

古くから相撲が盛んな地域で、毎年6月第2日曜日に奉納される菖蒲綱引きは古町と新町の子供達が3回綱引きを行い勝負を決めた後、浜で相撲を取り最後は綱を海に流す貴重な風習で、貴重な事から国選択無形民俗文化財に選択されています。

現在の母木宿は古い町屋建築や伝統的な建物は少ないものの、街道沿いは素朴な町並みが形成されています。

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