赤碕宿

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赤碕宿:略データ
・場 所・鳥取県琴浦町赤碕
・概 要・旧赤崎町内には目立った縄文時代から弥生時代の遺跡は少ないですが、古墳時代になると、鳥取県内では有数の笠取塚古墳や、出土岩屋古墳をはじめ別所古墳群、篦津古墳郡、梅田古墳群、丸山古墳群、光古墳群、西宮古墳群等が点在し、有力な豪族がいた事が窺えます。

旧町内は古代の官道である北陸道の経路でもあり、禁制の山陰街道の南側を通る弘法の杖曳と呼ばれる道は古代の駅路とする説があります。

背後に控える船上山は特異な山容をしていた事から古くから人々が畏敬の念を抱く信仰の山で、和銅年間には赤衣上人、又は智積上人によって智積寺が開山され一大霊場として発展、境内には多くの堂舎が建てられ鎌倉時代の宝篋印塔等の遺構が残されています。

鎌倉時代末期には討幕運動が露呈し隠岐に流された後醍醐天皇を伯耆の豪族である名和長年が保護し船上山に行宮を設けています。

これに対し幕府は佐々木清高を派兵し、佐々木能登守清秋は800騎で赤碕に夫人、清高は2000騎を率いて小波城を落とし、船上山の戦いが行われています。

戦国時代になると毛利家に従った南条元続が支配しましたが、織田家に転じた為、毛利家一族の吉川元春は天正8年に條山城を築き、天正10年には城番だった森脇越後守春親に命じて南条方の妙見山城を攻めさせています。

さらに、南条家の本城である羽衣石城も攻略したものの、天正12年に羽柴秀吉と毛利家との和睦が成立すると、再び南条氏の支配下に入っています。

慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで南条氏は西軍に与した為に改易となり、その後、米子藩領、矢橋藩領等を経て、寛永9年に池田光仲が鳥取藩に入封すると、以後は明治維新まで鳥取藩領に組み込まれています。

当地は大山道が分岐する交通の要衝だった事から寛永14年には山陰街道の宿場町に指定され制札場も設置、さらに、承応年間には鳥取藩の藩蔵が設けられると八橋郡の年貢米が当地に集められています。

又、赤碕湊(菊港)は良港として知られ、江戸時代に入ると北前船の寄港地となり藩蔵が建ち並ぶと、鳥取藩の廻米の積み出港に指定され、藩の舟番所も設置されました。

明暦3年に鳥取藩の江戸藩邸が火災で焼失すると、木材の調達を命じられた大庄屋の河本長兵衛は赤碕湊から木材を江戸まで運んでいます。

正徳5年には米子湊、境湊、浦富湊、賀露湊、泊湊と共に鳥取藩領内六大湊に数えられ重要視されていた事が窺えます。

江戸時代後期になると紅花や木綿の一大生産地となり安永9年には赤碕村の西紙屋佐兵衛が三井大坂店の紅花買継宿に指定され、その後に木綿買継宿にも指定されています。

江戸時代末期になると鳥取藩でも領内の海防が問題視され、慶応3年には豪農武信佐五右衛門の資金提供により半円状の赤碕台場が建造され、取締5人、御用懸り5人、大砲打ち手30〜40人が配備されています。

現在も街道沿いには伝統的な町屋建築が目立ち宿場町らしい町並みが見られ、特に塩谷定好写真記念館は貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。

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