八橋宿

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八橋宿:略データ
・場 所・鳥取県琴浦町八橋
・概 要・八橋狐塚古墳は4世紀末期から5世紀初頭頃に築造された全長62mの前方後円墳で、旧東伯町内では最大規模を誇っている事から有力な豪族がいた事が窺えます。

律令制下で古代の官道である山陰路が開削されるとその駅家である山陰路が開削されるとその駅家である清水駅が設置され、現在の琴浦町八橋市街域南に位置していたと推定されています。

現在も地籍図には清水屋敷や清水裏、清水尻、清水前等「清水」を冠する地名が残され、特に清水屋敷には集落が見られる事から、清水駅があった所に比定されています。

地名の由来は伝承によると、神話の時代、大国主神の娘である高姫神が当地に下向した際、急に辺りが暗くなり、八疋の大蛇が折り重なりあい、まるで八つの橋に見える様な雲が立ち込めたそうです。

すると、八岐大蛇の化身と見られる霊体が出現し、八岐大蛇の怨敵だった素戔嗚尊の子孫である高姫神に襲い掛かってきました。

高姫神は、素戔嗚尊に加勢して欲しいと強く念じると不思議な事に霊体は霧消し晴れ晴れとした空が広がりました。

この故事から当地を「八橋」、そこに流れる川を「加瀬蛇川」と呼ぶようになったと伝えられています。

一方、「和名抄」には八橋(やはし)郡として記載されており、方見、由良、荒木、古布、八橋、篦津の6郷で構成されていました。

中世に入り行松氏が台頭すると、八橋城が築かれ、当地が東伯耆の要衝だった事から度々攻防戦が繰り広げられました。

戦国時代には尼子氏の支配下にあり吉田左京亮が配されたものの、毛利氏が台頭すると、毛利方の三村家親や香川光景に攻められ、八橋城は落城しています。

その後は毛利家の家臣杉原盛重が配されましたが、後を継いだ2男の杉原景盛が羽柴秀吉方に転じた為、天正10年に毛利家の一族である吉川氏に攻められ討ち取られています。

慶長5年、関ヶ原の戦いの功績により入封した中村一忠が米子藩を立藩すると当地も組み込まれ、叔父の中村一栄が八橋城3万石で配されています。

慶長14年に一忠が死去すると嗣子が居なかった事から中村家は御家断絶となり代わって市橋長勝が入封し2万3千石で矢橋藩を立藩しています。

長勝が元和2年に三条藩に移封になると矢橋藩は廃藩、以後は鳥取藩に属しています。

八橋には重臣の津田氏が配され、自分勝手政治と呼ばれる半独立的な独自に行政が行われています。

山陰街道が開削されると宿場町に指定され、制札場も設置されています。

八橋宿は前屋敷、茅町、東町、中町、西町、宮の下町、新町が形成され、津田氏の陣屋が東町と中町の南側にあった事から東町と中町には津田氏の家臣達が居住する武家屋敷が設けられました。

又、八橋宿からは倉吉往還が分岐する交通の要衝であると同時に、津田氏の陣屋町でもあった事かた敵からの攻撃に備えて、街道には桝形が2箇所設けられ特徴ある町並みが見られます。

明治24年には小泉八雲が新婚旅行でセツ夫人と共に琴浦を訪れ、中井旅館で宿泊、友人宛ての手紙には「八橋ではとても愉快でした。眠り食べ泳ぎ全く快適です。」と記しています。

山陰街道:宿場町・再生リスト
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