・長瀬高浜遺跡は弥生時代から室町時代にかけての大型複合遺跡で、竪穴住居跡179棟、掘立柱建物跡48棟、弥生時代の墳墓49基、古墳98基、中世の火葬墓81基、土葬墓33基、平安時代の畑跡等が確認されています。
長瀬高浜1号古墳が遺跡内の最大規模の古墳で、直径24m、円墳、全体は河原石を用いた葺石で覆われ、箱式石棺内からは30代前後の女性の人骨と副葬品である直刀が発見されています。
遺跡内からは多種多様の遺構、遺物が大量に発見されており、中でも、古墳とは異なる場所で大量の埴輪が発見され貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
地名の初見は正嘉2年に描かれた「東郷庄下地中絵図」で、天竜川付近に「北条内長瀬村」と記されています。
戦国時代に尼子氏が没落すると、遺臣の山中鹿之介が尼子氏再興の為に挙兵、鹿之介勢は伯耆国まで勢力を広げたものの元亀元年から毛利家が反撃に転じています。
元亀2年に布部合戦で敗れた鹿之介は末吉城に籠城、毛利勢も攻め手を欠き、相当していた山田重正の援護の為、吉川元春が長瀬まで進軍し陣を張っています。
江戸時代に入ると鳥取藩領に属し、承応4年には山陰街道の宿場町に指定され馬15疋を常屋するように命じられています。
長瀬の地は倉吉往来(美作街道)が分岐する交通の要衝だった事から多くの旅人や荷物が行き交いました。
当初は天神川には橋が無く、「天神渡し」と呼ばれる渡し場があり、舟によって対岸に渡っていましたが、安政年間に舟渡しを生業としていた与四郎が私財で仮橋を設け、橋賃を取るようになったとされます。
寛文4年に郡代由宇勘平の罪人召捕方に関する嫌疑に基づいて、長瀬宿の東、舟川端に「牢屋敷」が設けられています。
牢屋敷には年貢の未納の者や盗掘、賭博、不人気者等が収容されていました。
現在は建て替え等が進み宿場町らしい町並みが失われつつあります。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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