琴浦町: 八橋城

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概要・歴史・観光・見所
八橋城(琴浦町)概要: 八橋城の築城は不詳ですが中世は歴代行松氏が居城として利用し周辺を支配していました。大永4年(1524)、月山富田城(島根県安来市)の城主尼子経久が八橋城を攻略(大永の五月崩れ)、以後家臣である吉田左京亮が城主として周辺の支配を任されています(諸説あり、尼子氏が当地を支配したのは天文年間:1532〜1555年とも)。永禄8年(1565)、毛利方の侵攻により八橋城が落城、当時の城主吉田源四郎は月山富田城まで退いています。その後、毛利家家臣杉原盛重が城主となり南条氏攻防戦の拠点の1つとして攻防戦が繰り広げられました。天正年間(1573〜1593年)に南条氏が支配したようですが江戸時代に入ると米子藩領となり中村一栄(藩主の伯父)が3万石で八橋城城主となり中村家が断絶した慶長14年(1609)には市橋長勝が2万3石で入封し矢橋藩を立藩します。元和2年(1616)、長勝は大坂の陣の功により三条藩(新潟県三条市)に加増移封となり矢橋藩は廃藩、八橋城も廃城となります。元和3年(1617)に鳥取藩領となり、寛永9年(1632)からは藩主池田家家臣津田氏が8千石で八橋領に配されると八橋城の跡地に陣屋を構え半独立的な立場(自分手政治)を保ち明治維新を迎えています。城は比高15〜20m程(伯耆民談記によると麓から本丸までの高さが26間=47.3m)の丘陵に築かれた平山城で、本丸と2の丸で構成され伯耆民談記によると本丸は南北32間、東西23間、周囲87間、二の丸は本丸より3間程下に位置し東西27間、南北23間程の規模だった事が記載されています。八橋城は現在でも郭の形状や土塁、空堀、石垣などが残り昭和49年(1974)に琴浦町指定史跡に指定されています。

八橋城:写真

八橋城
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