清洞寺跡(米子市)概要: この地は元々、中海に浮かぶ岩礁で亀島とも呼ばれていた景勝地でした。最初に寺院を建立したのは慶長15年(1610)、米子城の城主加藤貞泰が父親(光泰)の菩提を弔う為に本源寺を開き墓碑(五輪塔)を建立したのが始まりとされます。元和3年(1617)貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県大洲市)に移封になると鳥取藩主池田家の家臣池田由之が3万2千石で米子城に配されますが、元和4年(1618)に家臣により殺害されます。
跡を継いだ池田由成は本源寺に父親の菩提を葬り両親の墓碑(五輪塔)を建立、父親の戒名「海禅寺殿霊岳永祥大居士」に因み寺号を海禅寺に改称しています。寛永9年(1632)、主家である池田光政が岡山藩(岡山県岡山市)に移封になると由成もこれに従い、変わって鳥取藩主となった池田光仲の家臣荒尾成利が米子城に入り禅源寺に寺号を改称、その禅源寺が洪水により博労町に移ると荒尾氏の重臣村河氏が清洞寺を移し自らの菩提寺にして明治維新を迎えます。
清洞寺は明治時代以降は庇護者を失った為廃寺となり境内には3つの五輪塔を残すだけとなりましたが「札打ち供養止め」の信仰は継承され現在でも多くの札が奉納されています。清洞寺跡は米子市指定史跡に指定されています。
清洞寺跡:上空画像
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