粟嶋神社(米子市)概要: 粟嶋神社は鳥取県米子市彦名町に鎮座している神社です。粟嶋神社の創建は不詳ですが伯耆風土記逸文によると少彦名命が粟の穂にはじかれて、この地から常世の国に渡られたとされ、その故事から大国主命が「粟嶋」と名付けたと伝えられています。又、粟嶋に住した有力者に跡継ぎがいなく、88歳の米寿の年に子宝を授かった事から「米子」の地名の由来になったとも云われています。境内には少彦名命が粟嶋に上陸した場所(御岩宮祠、お岩さん、神の依代)が聖地として信仰され、粟嶋全体が神奈備(神の宿る山)として神聖視され神功皇后や後醍醐天皇が参拝に訪れたとの伝説も残されています。歴代領主からも崇敬庇護され、戦国時代の永正年間(1504〜1520年)中尼子経久の兵火により社殿が焼失しましたが、大永4年(1524)にその経久が再建、江戸時代には歴代鳥取藩主から庇護されました。
粟嶋神社は当初は嶋の山麓に社殿を構えていましたが、元禄年間(1688〜1704年)に焼失し、社殿を再建した際に山頂(標高:36m)である現在地に遷座し、本殿背後には出雲大社遥拝所が設けられています。古くから神仏習合し「粟島大明神」と呼ばれてきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され現在の社号である「粟嶋神社」に改称し郷社に列し明治40年(1907)に神饌幣帛料供進神社に指定されています。
粟嶋は名称の如く中海に浮かぶ独立した島として(境内には渡し舟で行き来した)古くから景勝地として知られ、文政年間(1818〜1830年)には米子八景に数えられ、「粟嶋秋月」として「うき雲を はらひし風を あは島の しまにのこして月ぞすみける」と詠まれていましたが江戸時代中期以降干拓が進み後期には陸続きになったとされます。
粟嶋神社の神社山門(随神門)は切妻、銅板葺、三間一戸、四脚単層門、拝殿は切妻、銅板葺、平入、桁行4間、正面1間切妻向拝付、本殿は大社造、銅板葺。又、境内の裏には人魚の肉を食べた為不老長寿となり800歳まで尼となり生き続けた八百比丘尼の暮らした洞窟(静の岩屋)があります。粟嶋神社境内は神域だった為、自然環境が残されていて「粟嶋神社社叢」として昭和57年(1982)に鳥取県指定天然記念物に「粟嶋」として昭和52年(1977)に米子市指定名勝にそれぞれ指定されています。祭神:少彦名命。合祀神:大己貴命、神功皇后。
粟嶋神社:上空画像
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