大山寺(大神山神社別当寺院)

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概要・歴史・観光・見所
大山寺(大神山神社別当寺院)概要: 角磐山大山寺は鳥取県西伯郡大山町大山に境内を構えている天台宗別格本山の寺院です。大山寺大山寺の創建は養老年間(717〜724年)、俊方(出雲の国玉造り人)によって開かれたのが始まりと伝えられています。ある時、俊方は大山で大きな鹿を射止めましたが、その鹿は地蔵尊の化身だった為、俊方は出家し金蓮と名乗り草庵を設け地蔵尊を祭って自らの罪を悔いたと云われています。平安時代に入って称徳天皇から権現号を賜り、さらに貞観8年(866)に慈覚大師により顕密両教(引声の阿弥陀経)が伝えられると天台宗に改宗し中国地方の天台宗の拠点として寺運が隆盛、最盛期には支院、末寺が100ヵ寺を数え3000人の僧兵を擁する大寺となり周辺地域に大きな影響力を持ちました。

大山寺は歴代領主や為政者から庇護され承安元年(1171)に火災により堂宇が焼失すると、当時の領主紀成盛が堂宇を再建し、中世は名和氏の縁者を別当職に迎えるなど常に密接な関係を築きました。戦国時代に入ると尼子氏や毛利氏、吉川氏、主亀井氏等から崇敬され寺領の寄進や堂宇の造営、宝物の奉納などが行われましたが度重なる兵火により急速に衰退し江戸時代に入ると中村一忠により寺領が没収されてしまいます。

慶長15年(1610)に豪円(西楽院の僧)が徳川家康に嘆願したことで寺領3000石が認められ再び天台宗の別格本山として寺運が隆盛します。明治時代初頭に発令された神仏分離令により大神山神社と分離した事で急速に衰退し、明治8年(1875)に一端廃寺となり多くの支院や坊、仏塔などが破却されました。その後、明治36年(1903)に寺院として復しますが昭和3年(1928)に火災により本堂(旧大日堂)が焼失し昭和26年(1951)に再建されました。現在でも大山寺には4つの参拝堂と10の支院が残り数多くの寺宝を所有しています。伯耆三十三観音霊場第15番札所。中国三十三観音霊場第29番札所。出雲國神仏霊場第10番札所。山号:角磐山。宗派:天台宗別格本山。本尊:地蔵菩薩。

大山寺の文化財
大山寺阿弥陀堂−天文21年−国指定重要文化財
・ 木造阿弥陀如来及び両脇侍像−天承元年−国指定重要文化財
・ 銅造十一面観音立像−奈良時代−国指定重要文化財
・ 銅造観音菩薩立像−奈良時代−国指定重要文化財
・ 銅造観音菩薩立像−宋または遼時代−国指定重要文化財
・ 鉄製厨子−国指定重要文化財

大山寺:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ


大山寺:ストリートビュー

大山寺:写真

大山寺
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