用瀬宿

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用瀬宿:略データ
・場 所・鳥取県鳥取市用瀬町
・概 要・南北朝時代に山名時氏が因幡国の守護職になると当地には家臣である用瀬氏が配されました。

用瀬氏は居城となると景石城を築くと国人領主化し長く当地を支配しています。

天正8年に因幡国に侵攻した羽柴秀吉が景石城を急襲すると、当時の城主である用瀬備前守入道は敗北し、秀吉に従った磯部豊直が配されています。

天正9年、豊直は改めて秀吉の家臣、木下重堅の属将として因幡国智頭郡3千石が安堵されています。

豊直は城下町の整備に力を入れ、道の中央には用水を引込、上町と下町を町割りすると、町と町との境は桝形とし下町の外れに刑場を設けています。

一方、用瀬備前守入道の一族と思われる用瀬左衛門尉は帰農し、「原」姓を掲げると当地の開発に尽力したと伝えられています。

慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで豊直は東西中立を保った咎により改易となり、当地は若桜藩山崎家の管理下に置かれ景石城は若桜城の支城となったようです。

元和元年の一国一城令により景石城は廃城となり、元和3年に山崎家治が備中国成羽藩に移封になると当地は鳥取藩に組み込まれています。

寛永9年に池田光仲が鳥取城に入ると因幡街道の整備が行われ、当地はその宿駅となり、宿場町として整備されました。

町の規模は八町程で伝馬18疋、制札場や牢屋等も設けられ当時の戸数は280戸余、人口1000人余りだったとされます。

拝領高は146石余りで本免は6ツ7分、享保19年の「因幡志」によると高250石、安政5年の村々生高竈数取調帳によると生高261石余りと記されています。

因幡街道(智頭往来)は鳥取藩主池田家の参勤交代の経路になっていた事から用瀬宿には藩主が休息や宿泊で利用出来る御茶屋(本陣)が設けられ、屋敷内には「目付」や「山奉行」等、藩の出先機関も配されています。

御茶屋には藩主が利用する格式が高い御居間(8帖)をはじめ、御次間(8帖)、御三の間(12帖)、広間(22帖)、湯殿(5帖)、附属部屋、家臣控え部屋等があり19疋収容出来る馬小屋等も設けられていました。

又、佐治村とを結ぶ佐治往還が分岐する交通の要衝でもあった事から、在郷町、物資の集積智としても発展し、毎年2と7の付く日、合計6度の市が開催され大いに賑わったとされます。

用瀬宿には屋号として散岐屋、余戸屋、佐治屋等近隣の地名や、田島屋、紀州屋、土佐屋、大津屋等の国名を掲げる家が散見され、関係性が窺えます。

江戸時代末期の慶応元年には用瀬番所が設置され、藩士6人と下番4人が配され、明治4年に番所が廃止になるまで人物改めや荷物改めが厳重に行われました。

江戸時代まで遡るような建物は少ないようですが、現在も街道沿いには古民家が軒を連ね宿場町らしい町並みが見られます。

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