・河原町は和銅5年に編纂された古事記に登場する「因幡の白兎」伝説で大国主命と結ばれる「八上姫」の出身地と伝わる地として知られています。
町内に鎮座している売沼神社は延喜式内社で、祭神は稲葉八上比売命が奉斎されています。
嶽古墳は5世紀後半から6世紀後半頃に築造された鳥取市南部地域最大級の前方後円墳で、墳長50m、後円部径27.0m、高さ4.0m、前方部幅20〜24m、高さ2,8m、貴重な事から鳥取市指定史跡に指定されています。
又、嶽古墳の北麓には売沼神社が鎮座している事から、被葬者は八上姫とも云われています。
律令制下では因幡国八上郡に属し散岐郷や佐井郷、石田郷、曳田郷がありました。
鎌倉時代に入ると荘園である石田庄が成立し、鎌倉時代中期頃は尼善知が所有し、文永3年に善知の関係者と思われる御局の遺骨を埋葬する為に浄心房澄円に庄内の給田一町が譲られています。
その後も比丘尼善智が領家職として石田庄を管理する立場だったようで、文永6年には石田庄の別納の給田七町の内、三町を山城観勝寺の大円房良胤上人に、三町を尼明浄房に、一町を浄心房領として分配しています。
戦国時代に武田高信が大振袖山城の砦として河原城が築城され、天正8年には織田信長の命を受けた羽柴秀吉が鳥取城攻めの際に陣が設けられています。
天正9年に鳥取城が落城すると、河原城は廃城になったと思われ、因幡国平定に功績があった亀井茲矩が1万3千5百石で鹿野城主に抜擢、当地は亀井氏の支配下に入りました。
茲矩は領内整備に尽力し、大井出用水の開削によって広大な新田が開発され、慶長7年には水路の守護神として水神である市杵島姫命の御霊が勧請され弁財天社(現在の樋口神社)が開創されています。
因幡街道(智頭往来)が開削されると宿場町に指定され、鳥取城下から見ると最初の宿駅でした。
因幡街道は鳥取藩主の参勤交代の経路となり河原宿が鳥取城から丁度3里程離れていた事から休憩所として利用されたようです。
現在も街道沿いには古民家や近代建築が点在し懐かしい町並みが見る事が出来ます。
因幡街道:宿場町・再生リスト
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