・当地は古代の官道の経路だったとされ、平安時代後期の官人である平時範が筆した日記「時範記」によると、承徳3年に因幡国国司に就任し、因幡国府に赴任した際に志戸坂峠(駒帰峠)で「境迎え」の儀に臨み峠を下ったと記されています。
智頭往来志戸坂峠越は貴重な事から国指定史跡に指定されています。
地名は武内宿禰が因幡国に下向する際、峠を越そうとしたところ、馬が越える事が出来ず、引き返して別の経路から入国したとの故事に由来すると云われています。
別説によると佐治郷余戸の長である山内与四郎左右衛門が佐治郷苅地の長である佐治氏との争いに敗れ、佐治氏との争いに敗れ、佐治氏が山内氏から名馬を求めたものの、馬は人見坂で逃げ帰った故事に由来すると云われています。
記録的には文明14年8月10日の広峯神社社家肥塚家の檀那村書に「因幡国こまかへり五郎左衛門、弥太郎衛門・・・・」、天文8年12月吉日の檀那引付には「こまかえり 衛門」と記されています。
江戸時代に入り因幡街道が改めて開削されると宿駅に指定され宿場町として整備されました。
鳥取藩主池田家が参勤交代の際には早朝に本城である鳥取城を出立し、用瀬宿で昼食を採り、智頭宿の御茶屋(本陣)で宿泊、翌朝、智頭宿を出立すると、駒帰宿の御茶屋(御殿屋敷)で休憩し、志戸坂峠(駒帰峠)を越え、作州(現在の岡山県)坂根宿(英田郡西粟倉村)で休憩、大原宿(岡山県美作市)の本陣で宿泊しています。
駒帰宿の御茶屋の屋敷内には蔵屋敷や馬屋敷等の施設が設けられ、屋敷外には住居達が池田家が参勤交代で御茶屋に入る際、土下座で迎え入れた事から土下座場がありました。
駒帰宿には番所が設けられ人物改めや荷物改めが厳しく行われ、制札場も設置されました。
宿場内には旅篭や問屋、米屋、茶屋等が軒を連ね、難所である志戸坂峠(駒帰)を控えていた事から多くの旅人や商人達が利用し、駅馬は9疋常備していました。
享保6年に駒帰宿を訪れた野間義学が筆した「因府上京海道記(因州記)」には「駒帰、智頭ヨリ三里、鳥取ヨリ十里、但十里八町四十九間也。入口ヨリ谷川右ニ見ル。宿中、小川流ルル也。」と記されています。
文化10年には伊能忠敬の第8次測量で忠敬一行が駒帰宿を訪れ、幸三郎家で宿泊しています。
現在も街道沿いには懐かしい町並みを見る事が出来ます。
因幡街道:宿場町・再生リスト
|