米子城: 後藤家住宅

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米子城・後藤家住宅
【 米子城 】米子城は応仁の乱の騒乱時に築城されたと推定される城郭で、文明2年(1470)に尼子氏に敗北した伯耆方が米子城を利用した事が記録に残されています。戦国時代に入ると、尼子氏と山名氏、毛利氏により争奪戦が繰り広げられ、毛利氏の台頭により一族である吉川氏の勢力下に入ります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは毛利輝元が西軍の総大将だった事から敗北後減封となり、当時の城主吉川広家も当地を離れました。一方、米子城には中村一忠が17万石で入封し米子藩を立藩、米子城には藩庁、藩主居館が整備され城下町の町割りも行われました。慶長14年(1609)に中村家が断絶すると加藤貞泰が入封したものの、元和3年(1617)に大洲藩に移封になった為米子藩は廃藩となっています。その後、鳥取藩領に組み込まれると重臣が米子城代として赴任し、寛永9年(1632)以降は荒尾氏が城代を歴任しています。荒尾氏には米子地域の行政権が認められた為「自分手政治」と呼ばれ鳥取藩(藩庁:鳥取城)から半独立的な行政が行われました。

【 後藤家住宅 】後藤家住宅は鳥取県米子市内町に位置する町屋建築で、江戸時代中期の正徳4年(1714)頃に建てられました。後藤家は戦国時代に当地に土着したと伝わる旧家で、江戸時代に入ると米子湊が北前舟の寄港地になった事から、廻船問屋としても台頭するようになり大きな財を富みました。特に加茂川沿いは舟が着ける事が出来た事から複数棟の土蔵が川沿いに軒を連ね、現在でも一番蔵、二番蔵、味噌蔵が残され当時の繁栄の名残が見られます。主屋も周辺の町屋建築と比べて圧倒的な規模が大きく書院座敷や仏間など格式が高い事から当時の豪商の生活の一端を見る事が出来ます。国指定重要文化財。

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