二部宿

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二部宿:略データ
・場 所・鳥取県伯耆町二部
・概 要・二部の地は「和名抄」で記載されている伯耆国日野郡野上郷に属していたと比定されています。

野上の地名は野上川と日野川合流地点に程近い溝口付近から平坦地が広がりその地形を「野」と呼び、「野」の上流に位置していた事から「野上」と称するようになったとも云われています。

平安時代末期頃は後藤氏が当地を支配していたようで、応保2年に天寧山傅燈寺を二部奥の地に境内を遷しています。

建保4年に兵火により後藤家の居城である古寺生松城が焼失、傅燈寺も類焼し後藤左衛門尉基清が再建しています。

永禄年間に越前国守護職の朝倉氏が織田信長によって滅ぼされると、朝倉氏の家臣だった足羽将監重成が天正年間に当地に落ち延び要害山に二部城を築いて当地を支配しました。

足羽氏3代当主足羽理兵衛の代に火災で二部城が焼失し、先祖累代の武器や家財等を失い、家臣達も四散した為、理兵衛も現在地に移転し帰農しています。

江戸時代に入ると、二部の地は米子藩に属し、慶長6年に理兵衛は日野往来の川船組頭に任ぜられ、船数確保の代償として船諸役を免除されています。

当地は出雲街道、法勝寺往来が通過する交通の要衝だった事から宿場町が設けられ、足羽氏は本陣職を命じられています。

「伯耆志」によると「当時、故国主中村氏、雲州の故国主堀尾氏二候。参勤上下の旅館に供するにより中村氏より高十五石の免地を賜はる。理兵衛の時、寛永中雲州候。受封に及て又参勤の旅館に供し。是より後世に絶す。今に至るまで雲州候より五人口を賜ふ。」と記されています。

当初の伝馬数は溝口宿20疋に対し、二部宿は13疋(戸数121軒、宿屋4軒・茶屋3軒)と少なかったものの、大雨になると度々日野川が氾濫し川止めになった事から、文久2年には溝口宿を迂回すると新出雲街道が松江藩の参勤交代の経路に指定された為、溝口宿にあった藩の出先帰還は二部宿に移転しています。

松江藩の本陣(専用茶屋)は専任の番人を配する程の規模を有していなかった為、三部郷の大庄屋を担っていた足羽氏邸が充てられています。

慶応4年に戊辰戦争が勃発すると山陰道鎮撫総督に任ぜられた西園寺公望が3月7日に安来宿を出立し、草(吉佐)、天満(天萬)、伊喜野(池野)を経て二生(二部)宿の足羽助八方に着陣し同家を宿所として利用しています。

明治12年に郡区町村編制法が施行され日野郡が発足すると、二部宿が当地域の中心的な役割を持っていた為、郡役所が設置されています。

現在も街道沿いには複数の町屋建築が点在し、中でも足羽家の主屋と庭園が残され往時の繁栄が窺えます。

又、宿場の外れには嘉永2年に大坂道頓堀、日本橋詰の近江屋市次郎が建立した道標が残されています。

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