板井原宿

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板井原宿:略データ
・場 所・鳥取県日野町板井原
・概 要・地名の「板井原」は当地に湧き出ていた湧水を旅人等に利用し易いように「板井」を設けたのが由来とされます。

元弘の乱で鎌倉幕府転覆を画策した後醍醐天皇が幕府に捕縛され元弘2年/正慶元年に隠岐の島に流され際、板井原の地を通過したとされます。

伝承によると後醍醐天皇に同行していた御典医だった池田将監が、天皇の命により板井原の地に留まったと伝えられています。

池田将監の後裔と伝わる旧家には将監が愛用した弓が伝承され、別家では御醍醐天皇が着用した錦の織物の「衣片」が伝えられています。

又、鎌倉時代から南北朝時代にかけては隣地の金持村を本貫地とする金持氏の支配下にあったと見られ、当時の当主である金持景藤が四十曲峠まで後醍醐天皇を出迎えたと伝えられています。

江戸時代に入ると米子藩に属したものの、慶長14年に中村一忠が死去すると無嗣の為に改易となり、代わって慶長15年に関一政が入封し黒坂藩を立藩、しかし、元和4年に内紛で改易になった事から以後、鳥取藩領に組み込まれています。

江戸時代に入り、出雲街道が開削されると松江藩主松平家が参勤交代の経路になった事から、難所である四十曲峠の麓にある当地に板井原宿が整備されました。

出雲街道の整備については板井原宿では桂藤家、矢田貝家等が参加しています。

板井原宿には松江藩主の茶屋本陣が設けられ、当初は当地の開発に尽力した桂藤家が担い、その後は吉岡家が継承したそうです。

天保5年の記録によると村の石高は93石で伝馬数14疋、制札場が設けられ、木戸番所が設置されています。

吉岡家が所有している慶安5年に士免状によると石高72石余、免六ツ五分、物成45石余、鍛冶運上銀三匁・「山役たわね役鍛冶御運上」銀六一匁、鍛冶屋払米12石と記されています。

文化10年閏11月12日には第8次測量で板井原宿を訪れた伊能忠敬が新屋嘉六家を宿所として利用しています。

鎮守である板井原神社は何時頃開削されたのかは判りませんが、古くは山王権現と呼ばれ、江戸時代には鳥取藩主から庇護され、寛文7年には初代藩主池田光沖から社領5斗8升4合が寄進されています。

現在でも街道沿いには古民家が建ち並び宿場町らしい町並みが残されています。

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