・当地は日本最古の鬼伝説が伝えられ、市街地背後の低山の山頂に築かれた鬼住山城には多くの鬼を従える大牛蟹と呼ばれる鬼の大将が住んでいたとされます。
伝説によると、大牛蟹は家臣の鬼と共に、度々麓の村々を襲い大きな被害を出していた事から、村人の訴えにより孝霊天皇が討伐する事になりました。
孝霊天皇は鬼住山城の南側に位置する笹包山に本陣を敷き、鬼達と対峙すると、それを聞きつけた村人達は陣中見舞いとして笹巻の団子を献上しました。
孝霊天皇は笹巻団子で鬼を誘き寄せる策を思い付き、覆うし蟹の弟である乙牛蟹を大八雲命を討ち取る事が出来ました。
怒り狂った大牛蟹が激しく抵抗した為、苦戦を強いられると、孝霊天皇の霊夢に天津神の化身が出現し「笹の葉刈にて山の如くせよ、風吹きて鬼降らむ」と告げて姿を消しました。
翌朝、孝霊天皇が目を覚ますと早速、天津神の御告げに従い、周辺の笹を刈り取り笹包山の山頂に積み上げると、3日目の朝に強烈な南風が吹き、吹き飛ばされた笹は鬼住山城の鬼達に巻き付きました。
すると笹が突然発火した事で、火に包まれた鬼達はもがみ苦しみながら四散し孝霊天皇は勝利しました。
捕縛された大牛蟹は「我、降参す、これよりは手下となりて、北の守りに賜らん」と懇願した為、孝霊天皇は「よし、汝が力をもって北を守れ」とお許しになったと伝えられています。
地名は日野郡史によると当地の河床が高かった事から用水溝の取入口に位置していた事が由来になったとされます。
記録的には島根県大田市に鎮座している鶴岡南八幡宮の六角堂内の鉄塔中に「大永五年三月吉日 六十六部□ 伯州日野郡溝口 □明心□」の銘が刻まれています。
交通の幼少だった事から戦国時代には戦略的な拠点だったと思われ、小早川隆景・吉川元春・毛利元就連署書状には「久代・神辺此時至溝口罷出候へと申候」と記されています。
江戸時代に入ると米子藩領となりましたが、慶長14年に藩主の中村一忠が死去し嗣子が居なかった事から改易となり、米子藩は廃藩となりました。
代わって慶長15年、伯耆国日野郡西部に5万石で入部した関一政が黒坂藩を立藩、当地は黒坂藩領となります。
しかし、元和4年に家臣内で内紛が発生し、それが幕府方に露呈した事で改易となり、黒坂藩は廃藩となり、以後、当地はと鳥取藩領に組み込まれています。
当地は出雲街道と日野往来、大山道が分岐する交通の要衝だった事から宿場町が設けられました。
特に出雲街道は松江藩主の参勤交代の経路として利用された為、本陣が設けられ七里茶屋と呼ばれました。
延享3年の巡見使内手帳によると石高507石余、家屋106軒、神通412人、馬25疋、牛37疋だったと記されています。
文久2年に日野川の氾濫により、松江藩の参勤交代が困難になると、米子宿から二部宿に至る新たな経路が開削され、天万宿が宿場町に指定された為、溝口宿は出雲街道の経路から外れています。
出雲街道:宿場町・再生リスト
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