根雨宿

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根雨宿:略データ
・場 所・鳥取県日野町根雨
・概 要・日野町には4世紀から6世紀にかけて築造された古墳が点在し、その頃から人々の生活が営まれていました。

古代の伯耆国日野郡日野郷に属し、出雲国風土記の仁多郡の条の「伯耆の国日野の郡の堺なる・・・」と記されたのが地名「日野」の記録的初見とされます。

鎮守である根雨神社が何時頃に開創されたのかは不詳ですが、氏神として出雲の須賀神社から牛頭天王の分霊を勧請したのが始まりとされます。

根雨神社の社伝によると元明天皇の御代に当地が大規模な旱魃に見舞われ氏神の牛頭天王に雨乞い祈願をしたところ、恵みの雨が降り出し、農作物の根に潤沢な水分が満たされ住民達が救われた故事から地名の「根雨」の由来になったと伝えられています。

江戸時代に入ると米子藩に属しましたが、慶長14年に藩主の中村一忠が死去し嗣子が居なかった事から改易となり、米子藩は廃藩となりました。

代わって慶長15年、伯耆国日野郡西部に5万石で入部した関一政が黒坂藩を立藩、当地は黒坂藩領となります。

しかし、元和4年に家臣内で内紛が発生し、それが幕府方に露呈した事で改易となり、黒坂藩を廃藩となり、以後、当地は鳥取藩領に組み込まれました。

根雨の地は出雲街道と日野往来が分岐する交通の要衝だった事から宿駅に指定され宿場町として整備されました。

特に出雲街道は松江藩主の参勤交代の経路になった為、根雨宿には本陣が設けられ、休息所として利用されました。

当初の本陣は出雲街道の開削に尽力した緒方一郎右衛門家が担っていましたが、大火により大きな被害を受けた為、安永年間以降は代々梅林孫三郎家が本陣職を務めました。

梅林家は苗字帯刀が認められ、五人扶持が安堵され、根雨宿で大きな権限を持ちました。

現在、本陣梅林家の屋敷は取り壊されましたが、表門は一族と思われる根雨神社の宮司梅林家の屋敷に移築され日野町指定文化財に指定されています。

根雨宿は安政年間に記録によると家屋162軒、伝馬11疋、宿場の北側には桝形が設けられていました。

当地の主要な産業である製鉄や林業に大きく携わった近藤家は江戸時代中期頃に備後国から根雨宿に移り住んだと云われる氏神で、屋号として出身地に因み「備後屋」を掲げました。

代々鉄山師を営む一方で、奥日野郡の大庄屋を担う豪農としても知られ、安永8年頃から製鉄業も開始、後裔は天秤鑪や鍛冶屋等も経営し、大坂にも進出、領内一の鉄山師とも呼ばれました。

近藤家の屋敷内には江戸時代後期から明治時代に建てられた数多くの建物が残されており、10棟が鳥取県指定保護文化財に指定されてます。

現在も街道沿いには良好な町並みが残されており「伝えたいふるさと鳥取の景観100景」に指定されています。

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