打吹城(倉吉市)概要: 打吹城は鳥取県倉吉市仲ノ町の打吹山に位置する城郭です。打吹城の築城は延文年間(1356〜1361年)、山名師義(山名時氏の嫡男)が築き守護所としたのが始まりとされます。以来、伯耆国の政治の中心として山名氏が支配しましたが応仁の乱を契機に山名氏の勢力が後退し、大永4年(1524)に尼子氏が伯耆に侵攻するとあえなく落城しています(大永の五月崩れは無かった説が有力)。
その後、毛利氏の力を借り一時山名氏が復権しますが永禄5年(1562)に南条氏が勢力を拡大し打吹城を支配、しかし再び毛利氏が侵攻し天正8年(1580)には毛利方の吉川元春が打吹城に入り、南条氏攻略の拠点としています。天正12年(1584)に南条氏は羽柴秀吉の力借り毛利氏と和睦し再び打吹城を支配下となり、城郭の改修や城下町の整備などが行われています。
慶長5年(1600)の関が原の戦いで南条氏は西軍に付いた為改易となり新たに米子城の城主となった中村一忠の支配下となり家臣である中村栄忠が城代として打吹城に入りました。慶長14年(1609)に中村氏が改易になると一時天領を経て慶長19年(1614)に里見忠義が3万石で入封(実質的には打吹城には入っていない。)、元和8年(1622)に里美氏が断絶になると鳥取藩領となり元和元年(1615)に一国一城令の発令されていた為、支城が許されず廃城となります。
寛永9年(1632)に池田光政が鳥取藩に移封になると倉吉には次席家老の荒尾氏が配され打吹城の麓に陣屋を構えて明治維新まで統治しています。打吹城は標高204mの打吹山山頂に築かれた山城で、当時は東伯耆最大級の城郭として本丸には天守郭もあったと推定されています。山頂部には本丸を中心に6つの郭があり、中腹には備前丸と越中丸、山麓には南条家の居館、後の倉吉陣屋が設けられ、打吹玉川を天然の外堀に見立てていました。現在でも郭の形状や土塁、空堀、石垣の一部などが残り打吹公園として整備されています。
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