橋津宿

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橋津宿:略データ
・場 所・鳥取県湯梨浜町橋津
・概 要・船津宿に背後の控える馬ノ山丘陵には古墳時代前期から後期にかけて前方後円墳5基、円墳19基、合計24基の古墳が築造されており、「橋津古墳群」と呼ばれています。

特に4号墳は4世紀中頃に築造された墳長約100mの前方後円墳で、赤土の封土が盛られ、表面には板状のヘギ石、周囲には円筒埴輪が取り囲んでいました。

竪穴室石室からは三角縁神獣鏡をはじめ、車輪石、石釧、翡翠の勾玉、碧玉の菅玉等、多数の副葬品が発見されており、古代伯耆国では最初期の前方後円墳として注視されており、有力豪族が当地を治めていた事が窺えます。橋津古墳群は貴重な事から国指定史跡に指定されています。

中世までは天神川が東郷池に注ぎ日本海と結んでいた事から、伯耆国が立国し伯耆国府が鳥取県倉吉市国府に設けられると、当地は、その外湊に位置づけられたようで、湊村と呼ばれました。

三大実録の貞観九年四月八日丁丑条に「伯耆国・・正六位上湊神・・従五位下」と記されている「湊神」は当地の鎮守である湊神社に比定されています。

湊神社は歴代領主から崇敬庇護され、天文年間には尼子経久が社領150石、天正9年には吉川元春が50石を寄進、その後、当地を支配した南条元続、池田光仲も社領の安堵を行っています。

江戸時代に鳥取藩の年貢米輸送の安全と、五穀豊穣を祈願する為に例大祭に奉納されるようになった「永代船神幸」は貴重な事から湯梨町指定無形民俗文化財に指定されています。

正嘉2年に描かれた東郷庄下地中文絵図の裏書に「橋津」が見られるのが地名の初見で、絵図には橋津村の名は無いものの同地付近には20数軒の家屋が描かれており、船津村の存在が窺えます。

江戸時代に入ると鳥取藩に属し、当地が天神川と船津川舟運の拠点として伯耆東三郡の物資の集積地になった事から寛永14年には鳥取藩の年貢米の江戸、大坂回漕時に橋津浦等から積み出されています。

正保2年には鳥取藩の藩蔵が当地に設置され、最盛期には15棟(5万俵)の藩蔵が建ち並び、信応丸や誠興丸等5艘の廻米船(御手船)が各地が行き交いました。現在も「古御蔵」、「三拾間北蔵」、「片山蔵」の3棟が現存し、貴重な事から鳥取県指定保護文化財に指定されています。

慶安4年には山陰街道の宿場町に指定され橋津御番所も設けられ重きを成しました。宿場内には様々な職種の店が軒を連ね、元禄郷帳では18石程度だったものが元治郷帳では62万石となり、江戸時代末期には家屋が298軒を数えました。

江戸時代当初は正式の村名が湊村だった事から湊宿と呼ばれていましたが、江戸時代中期頃から、通称で橋津村と称されるようになり、江戸時代末期に正式に橋津村に改称されています。

江戸時代末期になると日本海でも外国船が度々出現するようになり、文久3年に大坂天保山砲台を鳥取藩が守備していた際、イギリス船を砲撃した事から、その報復を恐れた藩は海岸沿いに8箇所に砲台場を建造し、その一つは橋津に設けられています。

橋津台場は日本海の荒波によって約三分の一が浸食されましたが、貴重な事から国指定史跡に指定されています。

現在は当寺の町並みが失われつつありますが、藩の御蔵や歴史ある社寺、国指定史跡に指定されている橋津古墳群や橋津台場等の史跡が点在しています。

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