由良宿

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由良宿:略データ
・場 所・鳥取県北栄町由良宿
・概 要・戦国時代、当地は杉原播磨守盛重の支配地で、由良城が築かれています。

天正9年に羽柴秀吉による因幡国攻めにより杉原氏は没落、代わって当地は秀吉に従った南条氏に与えられています。

慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで南条氏は西軍に与した為改易となり、代わって中村忠一が領主になるものの、慶長14年に死去すると嗣子が居なかった事から中村家は改易となっています。

当地は市橋長勝に与えられ八橋藩が立藩しましたが、元和2年に長勝は三条藩に移封になった為、八橋藩は廃藩となり、代わって池田家が鳥取藩に入封すると、鳥取藩に属しました。

江戸時代中期になると、鳥取藩では領内各地から集められる年貢米の運搬が農民達の大きな負担になった事が問題視され、享保4年に由良川の舟運と山陰街道、八橋往来が通過する交通の要衝だった当地に墓の御倉が設けられました。

由良藩倉は由良川左岸の微高地に2千2百石が収納出来る13棟の土蔵が建築、由良川流域を中心とする村々約8千石分の年貢米が納められました。

享保17年には山陰街道の宿場町に指定され、改めて町並みが整備され米問屋や蔵役人、廻船問屋等が遷り住みました。

本陣は延享元年に駅次が赤崎宿から由良宿に遷った際、佐伯伝右衛門家に指定され、その後も佐伯家が歴任しました。

佐伯家は幕府の巡見使や大名の役人等、身分の高い人物が宿泊や休息で利用され苗字帯刀が認められました。

由良宿は山陰街道の宿場町の他、湊町でもあった為、周辺から多くの物資が集められ大いに賑わったとされ、宿場内には鍛冶屋や紺屋、米屋、運送屋等が軒を連ねました。

江戸時代末期に日本海にも外国船が度々出現するようになると、鳥取藩でも寺領の海岸防衛が問題となり、文久3年に瀬戸村の大庄屋である武信佐五右衛門家の養子、武信潤太郎総指揮で文久4年に由良台場が完成しました。

一方、鳥取藩は財政が逼迫していた事から独自の財源で台場を築造する事が出来ず、武信家を中心とした領内の豪農や豪商から寄付を募り、領民7万5千人を動員する一大事業となりました。

由良台場は稜堡式のフランス式砲台で、東西123m、南北83m、周囲400m、面積約1万2千u、貴重な事から国指定史跡に指定されています。

遡る安政4年には同じく武信家により六尾反射炉が建造され、ここで鋳造された大砲は約50門とされ、鳥取藩が守備した大坂の天保山や、領内の台場に配備されました。六尾反射炉跡は貴重な事から北栄町指定史跡に指定されています。

現在も街道沿いには歴史ある町屋建築が点在し、宿場町らしい町並みが見られます。

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