淀江宿

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淀江宿:略データ
・場 所・鳥取県米子市淀江
・概 要・淀江町は古代から多くの人達が生活を営み繁栄した地域で、縄文時代の遺跡として渡り上り遺跡や鮒ケロ遺跡、井手跨遺跡等が見られます。

妻木晩田遺跡は弥生時代後期最大級の遺跡で、数多くの鉄製品の他、山陰地方で多く見られる四隅突出型墳丘墓が築造されています。

古墳が多い地域でもあり、6世紀前後に築造された向山古墳群では前方後円墳が8基確認されており、4号墳では豪華な副葬品が出土し、1号墳では豪華な副葬品が出土し、1号墳では朝鮮半島の影響を受けたと推定される横穴式石室が見られます。

7世紀末期頃には上淀廃寺が開創され壁面には仏教壁画が描かれ、仏教文化が当地にも浸透した事が窺えます。

鎌倉時代に入ると伯耆国稲吉村を本貫とした稲井瀬氏一族が当地を支配したと推定されています。

鎌倉時代末期に討幕運動を画策した御醍醐天皇に同調した名和基長は家臣である中間藤七郎を通じて稲井瀬五郎三郎弘義の調略を試みましたが断られています。

逆に幕府の意を受けた佐々木清高に応じた弘義は後醍醐天皇方が立て籠もる船上山での攻防戦に参戦し討死しています。

船上山を落とす事が出来なかった清高は当地の小浪城に入り体制を整えようとしたものの、天皇方の信貞、行氏に攻められ激しい攻防戦が行われています。

室町時代になると山名氏の支配下に入り、戦国時代には淀江城が築かれています。大永4年には尼子氏の侵攻を受け、山名守正が守備していたものの、落城しています。

尼子氏が没落すると毛利氏の支配になりましたが、永禄12年の尼子氏遺臣の山名鹿之助が尼子氏の再興を掲げ当地方を掌握、淀江城も尼子方に復したようです。

しかし、元亀2年に毛利家一族の吉川元春が尼子再興軍を破り、当地の軍事的重要性が失われた為、淀江城は廃城となっています。

江戸時代に入り山陰街道が開削されると宿場町として整備され、大山信仰の参詣道が分岐している交通の要衝だった事から重要視され制札場も設置されています。

隣接する淀江湊は良湊として知られ、鳥取藩は当地に藩の御蔵を設け、そこに集められた廻米の積み出し港となっています。

江戸時代後期に日本海にも外国船が度々出現するようになると鳥取藩もその対応に追われ、文久3年には淀江台場が設けられ、18斤砲、6斤砲、5寸径砲各1門が配備されています。

明治24年に発生した淀江大火により多くの建物が焼失した為、江戸時代まで遡るような古建築物は少ないようですが、街道沿いには切妻平入に統一された古民家が軒を連ね、宿場町らしい町並みを見る事が出来ます。

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