【 概 要 】−大山寺(鳥取県大山町)は奈良時代に俊方(金蓮上人)により創建された古寺です。伝承によると俊方は鹿を狩る為に大山の深部までわけ入り、見た事もない大きな鹿を矢で射止めました。喜び勇んで鹿まで駆け寄ってみると、鹿は地蔵菩薩の姿に変え横たわっていた事から、地蔵菩薩の化身だった事を悟り、自らの殺生に悔いた俊方は一宇を設けて地蔵菩薩を祭ったのが始まりとされます。もう一説は依道と呼ばれる玉造の名人がある時、大山の麓で金色に輝く狼が出現した事から、ぜひ我物と弓を取り、機会を窺いながら山の奥に入り込み、いざ好機と弓は放つ瞬間に地蔵菩薩が出現し、その行為を制しました。すると、金色の狼は尼に姿を変え、切々と殺生の愚かさを説き、それに感化された俊方は出家して金蓮と名を改め、地蔵菩薩を祭る寺院を開いたと伝えられています。山号は伝承によると兜率天(仏の世界があるとされる須弥山の頂上)の角が崩れ、地面に衝突すると3つに割れ、1つが熊野山、1つが金峰山、1つが大山になった事から「角磐山」と呼ばれるようになったと伝えられています。平安時代に入ると村上天皇から大智明菩薩の称号を賜った為、大山寺を大山権現、守護神である権現社(現在の大神山神社奥宮)を大智明権現と呼ぶようなり、慈覚大師円仁が入山すると天台宗布教の一大拠点として発展し、住職も比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)から迎えるようになっています。中世に入ると、数多くの僧兵を抱え武装化し、鎌倉幕府の倒幕運動の際には大山寺の別当を担った信濃坊源盛は兄である名和長年と共に後醍醐天皇を助け船上山の戦いでも参陣しています。その後も、歴代領主と関係を深めた事で庇護を得て寺領の寄進や堂宇の造営が繰り返し行われましたが、慶長5年(1600)に米子藩(藩庁:米子城)に就任した中村一忠とは良好な関係を築けず、今までの寺領が没収され、衰退の憂いを招きます。しかし、慶長14年(1609)、中村一忠が跡継ぎがいないまま享年20歳で死去すると、中村家は断絶、米子藩(鳥取県米子市:本城−米子城)は廃藩になった為、豪円僧正が幕府に働きかけ寺領3千石が安堵される事になりました。これにより大山寺の境内、山内の整備が行われ、再び繁栄するようになっています。明治時代の神仏分離令と廃物希釈は厳密に行われ、守護神である大神山神社が認められる一方で大山寺は廃寺となり多くの建物は破却されました。その後、再興の機運が高まり、明治36年(1903)に再興を果たしています。
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