鳥取市(歴史)概要: 鳥取市には奈良時代から鎌倉時代にかけて因幡国庁が置かれ因幡国の政治、行政の中心となりました。周辺には因幡国一宮である宇倍神社が建立されている他、伊福吉部徳足比売墓跡や梶山古墳、岡益の石堂、栃本廃寺跡など点在し高い文化が存在していました。室町時代に入ると山名氏が因幡国守護職となり天神山城を守護所に定め長く支配しますが戦国時代の永禄6年(1563)には重臣で鳥取城の城主武田高信から攻められ天神山城は落城しています。
山名豊国は尼子氏の支援を受け天正元年(1573)に復権し、鳥取城に守護所を移すも毛利氏の侵攻により吉川元春に降伏、毛利豊元が城主となります。しかし、尼子氏の残党により攻撃され鳥取城は落城、天正3年(1575)、毛利氏が因幡を統一すると再度山名豊国が城主となります。天正8年(1580)、羽柴秀吉の鳥取城攻めにより逸早く豊国は降伏し織田信長に臣従し鳥取城を明け渡しますが、毛利氏の侵攻により再度毛利氏に従うことになります。天正9年(1581)再度秀吉は因幡に出兵すると豊国は秀吉側に出奔、鳥取城には吉川経家が入り籠城戦が展開されるも3ヶ月後、経家の自刃と共に開城され以後、織田領となります。
その後、秀吉の与力大名である宮部継潤が鳥取城の城主となり秀吉政権下ではさらに影響力を強め五奉行に名を連ねました。慶長5年(1600)、跡を継いだ宮部長房は西軍に付いた為改易となり代わって池田長吉が6万石で入封し鳥取藩を立藩、元和元年(1615)に2代長幸が備中松山藩に転封になると元和3年(1617)に池田光政が姫路藩から32万5千石で入封します。この頃に現在の鳥取市の基礎となる城下町の整備や領内の開発が進められています。寛永9年(1632)、同族の池田光仲が岡山藩から入封すると光仲系池田氏が明治維新まで12代鳥取藩主を歴任しています。
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