鳥取城

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鳥取城・歴史・観光・見所
鳥取城概要: 鳥取城は天文14年(1548)、因幡守護14代山名誠通が天神山城の出城として築いたのが始まりとされます(諸説あり但馬山名氏(山名祐豊)が築き因幡山名氏に対したとも。)。当初は久松山山頂付近に築かれた山城で、因幡山名家が但馬山名家に敗れると鳥取城には但馬系山名氏(形式上但馬山名氏が因幡山名氏の名跡を受け継いだ。)に従った武田高信が入ります。武田氏は山名氏に従いながらも勢力を広め、永禄7年(1564)には主家山名氏の居城である天神山城を急襲し当主山名豊数を鹿野城に退かせています。天正元年(1573)、豊数の弟である山名豊国は尼子氏の遺臣である山中幸盛と結び鳥取城を占拠、高信は和議を結び鵯尾城に退いたものの忙殺されたそうです(諸説あり)。山名氏は元々の居城である天神山城を破棄し鳥取城を本拠としますが吉川元春に攻められ降伏、一時毛利方の持城となったものの天正2年(1574)に再び戦場となり尼子残党により奪取されます。天正3年(1575)、毛利氏が因幡を統一し、毛利氏に従った山名豊国が鳥取城に復権、しかし天正8年(1580)、羽柴秀吉の鳥取城攻めにより3ヶ月の籠城の後豊国は降伏し織田信長に臣従します。その為、毛利氏側となった因幡の国人領主達は豊国と対立し、豊国が毛利氏に降伏するかたちで鳥取城には毛利方の城将が着任します。その後、豊国が秀吉に出奔し因幡国の内情を知らせた事で天正9年(1581)再度秀吉は因幡に出兵し、2万とも3万とも云われる大軍勢で鳥取城を取り囲みます。対する鳥取城の城兵は城主吉川経家以下1千4百(町民、農民などを合わせると3千余り)、数の上では圧倒的に秀吉側が有利でしたが、あえて力攻めは行わず12キロにも及ぶ鳥取城の包囲網を築き、城内への兵糧の侵入を徹底的に抑える兵糧攻めを敢行しました。籠城は約3ヶ月続き、鳥取城に兵糧が尽きると馬は元より、戦死した人間の肉まで食し飢えを凌いだと云われています。結果的に吉川経安は自らの自刃を条件に城兵の助命を嘆願し、誓書を確認したうえで自刃しました。その後、秀吉の与力大名である宮部継潤が鳥取城の城主となると秀吉政権下で大きな影響力を持つようになり、五奉行に名を連ねるまでになりました。慶長5年(1600)、跡を継いだ宮部長房は西軍に付いた為改易となり代わって池田長吉が6万石で入封し鳥取藩を立藩、鳥取城も山頂部に加えて麓も整備され近代的に改修されました。元和3年(1617)に池田光政が32万5千石で入封すると城下町の整備とそれと合わせて鳥取城の外堀を計画し3重の防衛線を築きました。寛永9年(1632)、同族の池田光仲が入封すると光仲系池田氏が明治維新まで12代鳥取藩主を歴任しています。鳥取城は戦国時代築かれた中世の山城と麓に築かれた近代的な平山城が並存する極めて稀な遺構として大変貴重な存在で国指定史跡に指定されています。
鳥取城
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