岡益石堂(鳥取市)概要: 岡益石堂は7世紀後半から白鳳時代に建てられたと推定される山陰地方最古の石造建築物です。埋葬者には諸説ありますが武内宿禰とも、文治元年(1184)に壇ノ浦の戦いで海中に没したとされる安徳天皇とも云われ、石堂の周辺は白鳳時代の寺院である岡益廃寺の跡である事から何らかな信仰施設という説もあります。安徳天皇説としては戦局が平家不利が明確になると安徳天皇は密かに戦場を離れ当地にある長通寺で隠れ住みましたが、源氏の追及が厳しくなると、さらに山中に逃れ八上郡明辺の地に居を構えました。しかし、幼少で今までの暮らしと一辺した事から文治3年(1186)に重病により崩御し墓碑が建立されたと伝えられています。近隣には安徳天皇を祭っているとされる崩御神社や平家一族のものとされる墓碑群が点在しています。
岡益石堂は凝灰岩製、高さ1m、1辺6.6mの基壇の上に厚さ40cmの壁石(凝灰岩)で囲った石室に柱礎が設けられギリシャ神殿風のエンタシスのある円柱(1.8m)に2段の斗形が乗せられ、忍冬渦巻蓮華放射文様が刻まれている事や、形態が北朝鮮の双楹塚古墳に類似している事など日本の石造建造物に例が無く大陸の影響を強く受けたと推定されています。
古くからその存在は知られ、江戸時代に編纂された「因幡志」にも石堂として紹介され図も描かれています。岡益石堂は明治29年(1896)に安徳天皇御陵参考地に指定され現在も宮内庁で管理されています。
岡益石堂:上空画像
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