鹿野城(志加奴城・王舎城)概要: 鹿野城の築城年は不詳ですが古くは因幡国守護職山名氏に従った志加奴氏(鹿野氏)の居城だったとされます。天文13年(1544)、尼子晴久による因幡侵攻の際、鹿野城は落城し当時の城主鹿野入道以下300余名が討ち死となります。永禄6年(1563)、山名氏の家臣武田高信が山名氏の居城天神山城を急襲し、当主である山名豊数が鹿野城まで退きますが、山名氏の勢力は失われ永禄9年(1566)、尼子氏が実質的に滅びると毛利氏が因幡まで勢力を広げこの頃鹿野城は毛利氏の支配下に入ります。
天正6年(1578)、山中幸盛と共に尼子氏再興に尽力した亀井茲矩が羽柴秀吉に従うようになり、秀吉の因幡侵攻に先駆けて、鹿野城の城主となります。茲矩は天正8年(1580)、天正9年(1581)の秀吉による鳥取城攻防戦の為の環境整備や鳥取城の支城攻略に尽力し、鳥取城が落城した後に正式に鹿野城主に任命され1万3千石が与えられました。
関が原の戦いの際、茲矩は東軍に付き鳥取城を攻略した功により3万8千石に加増され鹿野藩を立藩すると、山頂部の城郭を整備すると共に麓に本丸を移し薬研堀や内堀、外堀を設けて近代的な城郭へと大改修しています。又、茲矩は秀吉の時代に琉球国を所望し、江戸時代に入っても幕府から朱印状を受け取り南蛮貿易を積極的に行うなど海外通で城を王舎城と呼んだり、城に朝鮮櫓やオランダ櫓を設けるなど他の城には見られない名称を付けています。
元和3年(1617)、2代亀井政矩は津和野藩(島根県津和野町)に移封になると新たに鳥取藩主となった池田氏の家老日置豊前が城主となりますが寛永5年(1628)に火災となり正保元年(1644)に事実上廃城となります。寛永9年(1632)、新たに鳥取藩の藩主となった池田光仲の2男池田仲澄が鹿野領2万5千石が分知され鳥取東館新田藩を立藩するも藩庁は鳥取城下に置かれ、鹿野に陣屋が置かれたのは明治元年(1868)になってからです(翌年には廃藩となり鳥取藩に吸収されました)。
鹿野城の縄張り: 鹿野城は標高148mの山に築かれた中世の山城で、山頂付近に設けられた本丸から階段状に二の丸、三の丸、四の丸、西の丸が配され、本丸には天守閣(7間四方の石垣、三層、入母屋、本瓦葺)、二の丸に出し櫓、西の丸には亀井茲矩の隠居所(南北7.5間、東西8間)、中腹の郭には鎮守社である妙見社(現在の城山神社)、麓の郭には朝鮮櫓、オランダ櫓、麓には事実上の本丸があり東物見、西物見と呼ばれる施設がありました。現在でも麓の居館部分には石垣や水堀、土塁などが明瞭に残され鳥取城、若桜鬼ヶ城と共に因幡三名城に数えられ鳥取市指定史跡に指定されています。鹿野城は鳥取城、若桜鬼ヶ城と共に因幡三名城と呼ばれています。
鹿野城:上空画像
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