亀井茲矩之墓(鳥取市鹿野町)概要: 亀井茲矩は出雲出身の戦国大名で、当初は尼子氏に従っていましたが尼子氏が滅ぶと、尼子氏再興に力を注いだ山中幸盛と共に行動し、織田信長や羽柴秀吉、山名豊国といった実力者に近接していきました。主家ともいえる尼子勝久や山中幸盛が亡くなると羽柴秀吉の因幡侵攻に従軍し天正9年(1581)の鳥取城の戦いでは坊己尾城や勝山城、荒神山城攻略に功がありました。鳥取城が落城後は鹿野城の城主1万5千石が与えられたことで諸侯に列し、毛利氏を滅ぼした場合には因幡国の領主が確約されていたとも言われています(茲矩は因幡国ではなく琉球国を所望したという逸話は有名で困った秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を授けたそうです。
後に秀吉の許可を受け琉球侵攻を画策しますが島津家の妨害により頓挫しています)。関が原の戦いでは東軍に組し鳥取城を攻略、その功で3万8千石に加増され鹿野藩を立藩し初代藩主になっています。茲矩は大井手用水路の建設など領内の整備を進める一方、幕府から朱印状を得て南蛮貿易を進め広く海外まで精通していたと云われています。慶長17年(1612)、鹿野城内で没、享年57歳。亀井茲矩公墓所は鹿野町と気高町の町境に近い明星ヶ鼻にあり、青年時代の居館跡地で鹿野城が望める事から墓域として選定されたと云われています。墓碑は茲矩の戒名「中山道月大居士」が刻まれている立派な大名墓で鳥取市指定史跡に指定されています。
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