打吹玉川(倉吉市・商家町)・町並み

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打吹玉川(倉吉市・商家町)
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【打吹玉川・歴史】倉吉は南北朝時代に築かれた打吹城の城下町だった町です。打吹城は伯耆守護職である山名師義が伯耆国守護所を移した事を受けて国内の中心施設となり、その城下町も国の中心都市として多くの人や物資が行き交い大きく発展したと思われます。山名氏が没落すると国人領主となった南条氏が支配し、戦国時代に入ると毛利氏が台頭すると一時掌握されますが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の因幡・伯耆侵攻により秀吉に従った南条氏の支配下に入り、打吹城や城下町も近代的に整備されました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで南条氏は豊臣方(西軍)に与した為に没落、代わって豊臣家を見限って東軍に与した中村一忠が入封し米子城鳥取県米子市)に藩庁を置いて米子藩を立藩、倉吉領は米子藩に組み込まれ、打吹城には家臣である中村伊豆守が配されました。慶長14年(1609)に一忠は跡継ぎが無く死去すると米子藩は廃藩、慶長19年(1614)に里見忠義が3万石を与えられ倉吉藩を立藩するも、御国入りする前に死去し倉吉藩も廃藩、当地は鳥取藩(藩庁:鳥取城)領となり打吹城も廃城となりました。元和3年(1617)に池田光政が鳥取藩主に就任すると重臣である伊木忠貞が、寛永9年(1632)に池田光仲が藩主となると次席家老である荒尾氏が倉吉に配されます。鳥取藩は大藩だった為、一族や有力家臣には「自分手政治」を認め、荒尾氏も自ら陣屋を構えて鳥取藩からは半独立した行政が明治維新まで行われました。

打吹玉川は荒尾氏の陣屋町の町人町として町割され、領内の中心都市として発展、特に陣屋の外堀に見立てられた玉川沿いには数多くの土蔵群が建てられました。明治時代以降は木綿や稲扱千歯などの特産品もあり当地域の商業の中心となりさらなる発展を遂げましたが、大正時代以降は極端な近代化が図られず、結果的に良好な町並みが残される形となりました。

【建物の特徴】−建物の特徴は江戸時代に建てられたものが厨子2階建、明治時代から昭和初期までは2階建、木造切妻、赤瓦葺、平入、敷地内には正面が主屋、背後に離れや付属舎があり、一番奥に土蔵を構えています。中でも桑田家住宅及び醤油醸造施設と高田酒造(高田家住宅及び醸造施設)は鳥取県の保護文化財、旧牧田家住宅(主屋・付属屋)は倉吉市指定文化財、協同組合倉吉大店会(旧第三銀行倉吉支店)小川酒造(主屋、ビン詰工場、旧仕込蔵、ふな場、二階蔵、三階蔵、道具蔵)、旧高田酒造(醸造蔵一、醸造蔵二)、旧倉吉町水源地(ポンプ室、量水室)、豊田家住宅、倉吉市庁舎、山陰民具店舗兼主屋、大社湯(第三鶴の湯)浴場及び主屋、飛龍閣は国登録有形文化財に登録されています。

【打吹玉川保存地区の概要】−打吹玉川地区が現在でも良好な町屋建築や土蔵群が残され伝統的な町並みを形成している事から平成10年(1998)に約9.2ヘクタール(倉吉市魚町、研屋町、東仲町、西仲町及び西町の全域並びに堺町1丁目、新町1丁目、幸ヶ町2丁目及び幸町3丁目の各一部)、伝統建造物所在戸数168戸、伝統的建造物数431棟、工作物73件が名称「倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区」、種別「商家町」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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打吹玉川(倉吉市・商家町)
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