蚊屋島神社(日吉津村)概要: 蚊屋島神社の創建は不詳ですが古くから蚊屋ノ庄の産土神として信仰されてきた神社で、天文14年(1545)に尼子氏によって発給された文書がある事から少なくとも室町時代には鎮座していた事が判ります。
又、近隣の旧家に現在の祭神と昔の祭神は違うとの伝承から平安時代中期に成立した「日本三代実録」の元慶7年(883)12月28日の条に記載されている伯耆国正六位上天照高日女神とは当社の事で、何時の頃から間違って伝承された為に天照大御神が祭られるようになり、それを改める為に高比賣命が勧請合祀され、2柱が主祭神として祭られるようになったとも云われます。
歴代領主である尼子氏(社領として日吉津浜田、社殿の造営)、吉川氏(社領40石5斗1合を安堵)、中村氏(社領45石7斗7升4合を安堵)、池田氏(社領6石8斗3升1合から16石3斗6升1合)などから崇敬庇護され、社領の寄進や社殿の造営が行われました。
江戸時代に入ると米子城の城代荒尾氏が庇護し、例祭の際には米子から役人を派遣して周辺警護を行い、領内安全の祈祷が行われました。
古くから神仏習合し「日吉津村大明神」や「伊勢宮」、「天照皇大神宮」、「日吉津ノ宮」などと呼ばれていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、現在の社号である「蚊屋島神社」に改め郷社に列し明治40年(1907)に神饌幣帛料供進社に指定されています。
又、蚊屋島神社祭神である高比賣命の夫神である天稚彦が誤って神の遣いである雉を弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で射ち殺し、その矢が天に届くと天稚彦に邪心があるとして、下界に打ち返され、その矢に天稚彦が射抜かれた死んだという神話から、蚊屋島神社の神官や社家は代々キジ肉を氏子は鹿の肉を食するのが禁じられています。
蚊屋島神社神門(神社山門)は切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門。拝殿は入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、梁間2間、正面1間入母屋、軒唐破風向拝付。本殿は大社造、銅板葺。祭神:天照大御神、高比賣命。合殿:豊受姫命、豊受姫命、大年神、天萬栲幡豊秋津姫命、天手力雄命、天若彦神。合祀:級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、素盞鳴尊、大己貴命、事代主神、金山彦神。
八脚門を簡単に説明した動画
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